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【3】
むかしむかし、とある山の麓にて。
一組の男女が、仲睦まじく暮らしておりました。
男の名は、荊尾 瀬渡(かたらお せと)。
生まれつき目の見えない男。
女の名は、荊尾 揺律音(かたらお ゆりね)。
鼠色の肌、深緑の髪。常人とは思えぬ見目の女。
そんな二人が住まう小屋には、いよいよもって人が来ません。
あの山には何かある。何かに憑かれた男がいる。化け物のような女がいる。
口さがない噂ほど広まるのも早いもの。
瀬渡と揺律音は、山の麓の小屋でふたりぼっち……
なので、とても幸せでした。
ふたりで山に入っては、瀬渡は揺律音に山の様々なことを教えました。
山の幸の在処、罠のかけ方、雨に降られた時の退避場所……。
一方の揺律音は、瀬渡の世話を焼くようになります。洗濯、食事、風呂の支度など。
と言うのも、瀬渡の“解る”範囲には何か偏りのようなものがあり……
特に料理の味が、ひどいとは言わないまでも、何か色々味が足りなかったのです。
そうして、お互いがお互いを補いながら、日が過ぎて行きます。
自分のことをとやかく言うことのない、自分に優しいひとが傍にいる。
他の人間など気にする必要がどこにありましょう。
山の麓に二人きり。慎ましやかながらも幸せな日々は、一日、一日と過ぎて行きます。
ある日。
瀬渡と揺律音は、同時に目が覚めました。
新月の夜。月の明かりがまるでない外は、真っ暗で。
朝日が昇るにはまだまだ時間がかかりそうな、そんな刻限。
「瀬渡さま」
「ああ。山に、誰かが入ったようだ」
不吉の象徴と吹聴されるこの山に、わざわざ踏みいる者がいたとして。
考えられる目的など、そう多くはありません。
まして揺律音はこの山に捨てられた身。あの時の不安は、恐怖は、未だに拭えず。
けれど、だからこそ。
「お前はここで、」
「いいえ瀬渡さま。わたくしもお供致します」
強い意思。
男を射抜く、
蒼色の瞳。
「──分かった。では、行こう」
こうして男女はしっかりと手を繋いだままに、暗い山道を歩み、そして……
やはり置き去りにされていた老人を、無事見つけることができたのでした。
それから、似たようなことが何度もありまして。
麓の小屋は、いつしか二つになり、三つになり……
やがて小さな村のようになっていきました。
山に捨てられる者。
世を捨て、山に逃げてくる者。
いずれも訳ありの者ばかりでしたが、瀬渡と揺律音の二人は構わず受け入れます。
初めは二人を気味悪がった来訪者たちも、その心根と懐の広さに触れるにつれ、
やがて彼らに協力するようになっていきました。
となると、悪人も少なからず紛れ込む筈、なのですが。
不思議なことに瀬渡と揺律音の二人には、それが悪人だと分かっているかのようで。
性根のねじくれた人間を迎え入れることは、ただの一人もありませんでした。
山に潜み、村に財が無いか探ろうとした泥棒もおりましたが、
決まって崖から落ちたり、獣に襲われたりして、無事に山を出ることはなく。
二人に救われた者たちは、そのことを不思議に思いながらも、
ついぞ二人に尋ねることはありませんでした。
だってここにいる限り、平穏が得られるのですから。
わざわざ余計なことを知って、その結果帰りたくもない町に戻らなければ
ならなくなる、なんて絶対嫌だったのです。
世捨て人の村。
人の中にいられなかった者たちの村。
不思議なことに、そこには大きな争いもなければ
欲による奪い合いなども起こりませんでした。
皆、そういう“醜さ”を目の当たりにしてきた者たちだったので、
そういうものになりたくなかったのでしょう。
だから、ひとが増えても、村は穏やかで。
緩やかで。あたたかで。
それぞれの得意とする技で皆が、皆を支え。
そんな日々が、二年も過ぎたころ──
「やあ、旦那、めでてえなあ!」
「ほんにのう。よく、揺律音さまも頑張りなさって」
「名前は……決まったのか……?」
「お、お、お、おん、なの、こ、こ、こ、」
「ようけ泣くわあ。こら大物になりますえ」
村の面々に囲まれて。
布団に寝そべったまま、いとおしそうに『我が子』を撫でる揺律音。
その隣で、はち切れんばかりの笑みを浮かべた瀬渡は──
一同を見回すとひとつ、大きく頷いて。
「娘の名は、水渡里(みとり)。
水と里を渡すと書いて、水渡里だ」
この世に生を受けたばかりの赤子に。
長く語り継がれることになる名前を、授けるのでした。
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