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"とじたせかい"――
双海の家系に流れる血と、血に由来する特異な力について祖父から初めて聞かされた時。
自然と頭の中に浮かんだ名前が、それだった。
代々、身の回りの物体に影響を及ぼす力を持って産まれること。
加齢に応じて力の大部分が変化しうること。
また精神面に強く影響を受けやすいこと。
言い渡された内容を掻い摘むと、その三点だった。
まだ術後間もないとはいえ電脳化したわたしには、祖父の話した内容は凡そ理解できた。
あの男
お父さんが自分を避けた一番の理由。
手を使わずに物を動かし、見もせずに何処に何があるか判別し。
人の持つ感情を読み取り、自分の想いまでも相手にぶつける。
その尽くを気味悪がったからこそ、"あれ"はわたしを部屋に
閉じ込めた。
持たざる者なりに力の性質を知っていたが故に、
広がることを恐れたのだ。
果たしてわたしの力は大きく歪んでしまった。
『お前など、生まれるべきではなかった』というただ一言が、心に深く突き刺さったからだ。
この力が精神状態によって変質しやすいのは、相手の言葉に含まれた感情を一切のフィルターを通さず直に受け取ってしまう所為だろう。
それが最大級の悪意・憎悪の塊であるなら、尚の事傷口は広くなる。
忘れようと必死になって、何重にも蓋をして、それでもある時突然思い出して消耗するくらいには。
"ミクスタ"との出会いこそあれ、念動力も千里眼も精神感応も、今では見る影もない。
一方で空間に対する認識には幾らか変化が生じた。
そこにあるもの。そこにはないもの。
そこにあるはずなのに、目には見えないもの。
目に見えているはずなのに、そこにないもの。
それらの違いを分かった上で、ありもしない虚像を作り出す。
そういった方向に進むことの良さを"ミクスタ"から学び、電脳化によって後押しを受けたのだ。
電脳技術がもたらした情報の共有化は、精神面に良い影響を与えたと言っていい。
広大なネットの海を泳ぐことで、自分に足りていなかった要素を補った。
わたしのように超常的な力を持った人間が周囲に多くないことを知り。
外部記憶と接続し、
自分には許されなかったことの多くを疑似体験し続け。
さながら遅れを取り戻すかのように、膨大な情報を咀嚼する毎日を過ごした。
ネットとリアルの境が希薄になりつつある中で、わたしは"とじたせかい"の変質を目撃した。
ただ幻を作り出すだけの力が、その瞬間、不可逆的に書き換わる。
サイバーディープ・イロージョン
"侵食する電子の海"――
閉じた世界から抜け出た最初の力であった。
◆ ◆ ◆
"第一層。それは内と外とを隔てる大洋。"
◆ ◆ ◆
真っ先に気がついたのは、目の前に浮かぶ電子情報の欠片だった。
拡張現実などではない不可思議なデータ。
殊更に何の機能を実行するでもなく、ただそこに存在することを示すプロパティだけを持ち。
硝子めいた板状の破片が幾つか寄り集まって宙を漂い、きらきらと緑白色に光り輝いて。
それはわたしによって作り出されたものなのだ、と。
そう伝えんとして発光を繰り返したのち、いざ手で触れると途端に霧散する。
そこには大きな謎だけが残った。
中学入学当初は、環境の違いと電脳への注力で、交友関係を広げるのにひどく苦戦した。
ネットから流れ込む情報を処理するので手一杯であり、人付き合いに労力を割く余裕がなかったのだ。
年頃の学生が母譲りの白い髪を気にならないわけがなく、休み時間の度に代わる代わる声が掛かる日もままあった。
無愛想な返事は、彼ら彼女らにはウケが良かったらしい。
幸いにも距離を置かれることはなかったが、逆に縮められた相手が居たかと言うと些か怪しい。
春頃は、肉体の成長に対する受容と、変容した力の解明に躍起になっていた。
身体が両性の性質を併せ持つと言っても、基本となる部分は女性のものだ。
胸は徐々に膨らみ始め、皮下脂肪の増加でほんのりと肉付きがよくなり。
声や顔にも幾らか違いが表れ、とりわけ外性器には何よりも顕著で無視できない変化が訪れた。
有線通信の邪魔になるからと髪をばっさり切ったのは入学直前だったか。
お母さんの少し残念そうな顔は、今でもよく覚えている。
わたしも、お揃いでいることへの嬉しさと楽しさは確かに胸に抱いていたのだが。
すっかり髪を伸ばすという発想が頭から抜けてしまったようである。
いずれにせよ、世間一般の言う「女の子らしさ」から幾らか離れていったのは間違いない。
中学校での水泳の授業をどうするか、というのが自己の性を真剣に意識するようになったきっかけであった。
本来あるはずのない器官が備わっているだけでなく、同級生の――前の席で他の子と談笑する女生徒の肢体を目で追うことが増え。
否応なしに反応する"それ"を周りに悟らせてはいけないと、辛うじて働いた理性が危機感を抱かせもした。
余計なトラブルを招かない為に誤魔化す方法を全力で模索した結果、複数の発見を導き出した。
いつかの『電子情報の欠片』は初め宙に浮いていたが、物体や自分の体に貼り付けることも出来る。
その情報を
書き換えれば、それは欠片でなく別のものとなって新たな機能を得る。
空中に映像を表示したり、スピーカーの代替としたり、凡そ電子情報としてやり取り可能なあらゆる物体を再現しうる。
それ自体に実体は無く、手で触れれば通り抜けてしまう。
風景写真を壁に貼り付けようと、それは壁以外の何物でもないし、通路上に壁の画像を投影しても前進すれば問題なく通過する。
つまり、見られると困るものに別のものを貼り付けて、視覚的に騙してしまえる力。
電脳技術を存分に活用してこそ本領を発揮する不完全な能力である。
これも『精神面に強く影響を受けた』一例かと言われると否定は難しい。
けれどそういった考えと試行錯誤が"電子の海"に関する気付きを与えたのだとすれば、この体も面倒事ばかりではないと思えた。
さしたるアクシデントにも見舞われず水泳の授業をやり過ごしたわたしは、より理解を深めるべく研究に取り掛かった。
外では必要以上に力を使わず過ごし、反面自宅に帰ってからは
どこまで出来るのかを全力で検証する。
ふとした拍子に"何かの間違い"が起きてしまっては遅い。
この力が自己の手足の延長として有用であればあるほど、扱いには細心の注意を払う必要がある。
中学一年の秋。人間関係の構築に意識を向けるほどの余力が生まれ始めた頃。
クラスは元より、学校全体が"ある噂"で持ち切りになっていた。
曰く、この街のあちこちに現れる黒い靄が、人を怪物に変貌させる。
靄に触れたが最後、その者は二度と帰ってこない。
一度目を合わせれば、怪物はどこまでも追ってくる。
助かりたいなら決して一人で出歩くな、と。
ありがちな都市伝説の類いだと一蹴するのは簡単だ。
実際、生徒の殆どは怪訝な顔を浮かべていたし、わたしも半信半疑で聞いていた。
しかしここは情報の網が張り巡らされた電脳都市・海棠。
真偽を確かめる術には事欠かない街なのだ。
そうと決まれば、行動に移すのは早かった。
どこまで通用するかは定かでないものの、"電子の海"を用いた自衛手段は準備が出来ている。
最近目撃情報があった隣町、三椏の山間部を、単身噂を頼りに歩き回ることとなった。
暫くして、運良く――或いは運悪く、当たりを引いてしまった。
登山道の三叉路。行く手と帰り道、二方向を塞ぐ何かの影がある。
黒い靄。影の化け物。
わたしを待ち構えていた節すらあるそれは、一切の躊躇いもなく飛び掛かり。
影と自分とを遮るように、一本の棒が地面に突き刺さった。
棒を掴み取らんとして体の内側からすうっと現れ出たのは、緑白色の人型。
その鰐頭には覚えがある。半年前のあの夜のことは、ぼんやりとだが思い出せる。
"キベルネテス"――と、そう呼んだ記憶だけは、鮮明であるのに。
どうあれ、"鰐頭"はわたしを守ってくれた。
その点には信頼を寄せて、今度こそ逃げの姿勢に入る。
残された脇道。神社へと続く石畳の階段へ、真っ直ぐ駆け出して。
どういうわけか一瞬影の動きが鈍った様を見逃さず、ひたすらに上る。
"キベルネテス"は、贔屓目に見ても強かった。
獲物を振るえば影が削り取られ、たちまち形を保てず消えていく。
それでも数の多さを覆すには環境が適していない。
木々の合間、四方から次々と湧き出る影は限りを知らず。
また大振りの長物は木の幹や地面に触れ、乱雑に傷付けてしまう。
鳥居をくぐったところで、足がもつれ倒れ込む。
体力のない自分への恨み言ばかりが胸を満たして。
目撃者の末路、噂の顛末を想起して、いよいよ覚悟を決めたその時。
一条の光が降り注ぎ、靄もろとも、影の怪物はいなくなった。
「この山を一人で、とは関心しませんね。呑まれたらどうするつもりなのかしら」
有古山は天守神社。華やかな和装に身を包む一人の女性。
その名を雨森霖子。縦書きするな、が名乗り文句の巫女との出会いだった。