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物心ついた時から、わたしの側にはお母さんだけがいた。
お屋敷に、あの人とわたし。
二人で暮らすには大きすぎるくらいだったけれど、
フリージアの香る中庭の、芝生の上に寝転んで。
頭が痛くなるからと膝枕をしてもらった、いつかの思い出。
わたしは、そんなのんびりとした日々が好きだった。
たまに、黒い服を着た怖い人達が廊下を歩いていることがあった。
ただでさえ大きな家の中。自分以外の誰かがいたら、気になって仕方がない。
黒い人。白い人。
ふさふさの人。つるつるの人。
ヒゲの人。ツルツルの人。
何人も居るようだった。
毎日かわりばんこに廊下を歩き、いつもわたしの方を見て、
けれど声をかけようとするとどこかに行ってしまう。
わたしが大きくなっても、お屋敷にいる人は両手で数えられるほどだ。
わたし、お母さん、
お父さん、
お姉ちゃん、黒い服の人たち、メイドさん。
小さかった頃のわたしは、それが全てだと思っていた。
「お屋敷の外へ出てはいけない」と、お母さんは言う。
わたしはその言葉を、約束を破らずに、お屋敷の中を歩いて、走って、探検して、遊び回った。
ある時、お屋敷の地下まで迷い込んだわたしは、一際大きな扉のついた暗い部屋に入ったことがあった。
本棚と木箱が並んだ、不思議な部屋。そこはとても冷たくて、とても暗くて、とても怖かった。
ぶるぶると震えながらなんとか周りを見渡して、背の低い机の上に小さな桐の箱が置いてあることに気がついた。
その箱を持って自分の部屋に帰り、中を覗いた瞬間。
眼の前に、大きな"ワニ"が浮かんでいた。
◆ ◆ ◆
"ミクスタ"というのは、
それを初めて見たその時に、ふと頭の中に浮かんだ名前だった。
ナ ナ カ マ ド
『
Sorbus commixta』のもじりだと分かったのは、それからずっと先になる。
ぼんやりと薄く色付いていた頃の"ミクスタ"は、自分の部屋の中でのみ形を保つことができた。
扉や窓などのはっきりとした線を境に、室内という『海』を泳ぎ回る自由な生き物であった。
喋ったりはしない。手で触れられもしない。言っていることを理解出来ているのかも分からない。
ふよふよと浮かんだまま、こちらの呼びかけや動作に反応するように、じたばた手足を掻いて楽しませてくれた。
その一点だけで、わたしは"ミクスタ"に興味を抱いた。
一ヶ月、一年と過ぎていくにつれ、"ミクスタ"はわたしの部屋のみならず、廊下をも泳げるようになっていった。
母を始め他人に見られないよう気をつけながら、お屋敷という名の大海原に繰り出しては不思議な生き物について理解を深める。
まんまるで愛嬌のあるワニが新たに広がった世界を前に燥ぎ回る。
そんな姿を眺めるうち、わたしはこの奇妙な生き物と不可解な空間に、どうしようもなく惹かれていた。
◆ ◆ ◆
"人々から見た大海原は、それにとって川にも満たない。"
◆ ◆ ◆
その
端末は、古くから双海の家で保管されていたものだ。
叔父の話によると、少なくとも二百年以上前には既に当家の所有物であったとの記録が残っている。
ただ、時期によって
端末の形状が異なっているとの記載があり、その真偽には謎が多いとも。
七夏が所有者となった時、それは折りたたみ式携帯電話の形を模していた。
タッチ操作式の携帯端末が主流である現在からすれば些か古く見えるものだったが、屋敷の地下室に置いてあったことを考えれば不自然さは少ない。
しかし十数年前、叔父が初めて
端末の存在を確認した際には、より前時代的な――両手でなお大きすぎるほどの黎明期の携帯電話だと言うから、それが本当に同一の
端末なのか検証にひどく時間を要したらしい。
『中身を解析できない』のは共通点として充分だが、
端末を起動できる者が現れるまでそれの持つ本質、役割が頭から抜け落ちていたことが、検証が遅れた何よりの要因であろう。
異質な品を代々受け継いできた意味を理解するまでに費やした時間は、不思議と長くなかった。
端末から現れ出たもの"ミクスタ"と触れ合い育つ中で、多くを知った。"それ"が明確な意思を持ち、こちらへは欠片ほどの敵意も抱かず、そして所有者の身に危険が及べば速やかに排除する。そういった機能を備えた陰の"番人"なのだと。
実際、海棠の街に居た頃は
端末にこれまで多くの危機を救われ、また同じだけ救ってもきたし、他の
端末と接触することで様々な現象を引き起こし、新たな発見を齎してもきた。
それらの経験を通じて所有者に成長を促している、とするのが七夏と叔父、両名の解釈である。
デバイスキーパー
端末の所有者を指した"端末の守り人"なる呼称はあの街でごく最近になって発生したものだが、七夏にしてみれば自分たち人間こそが守られるべき端末なのではないか、と信じて疑わない。
イバラシティへ場所を移してなお、"守り人"が"守り人"で居られるかは、まだわからない。
けれども、必要に迫られればこの力を躊躇いなく行使する。身を守る、その一点に於いては海棠もイバラシティも変わりはしない。
果たして己の立場を逸脱することになるとしても、自分の決断を信じ、また
自分を信じてくれる誰かを信じるためになら――
わたしは、電子の海で世界を満たそう。