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物心ついて間もない頃、ある男はわたしに言った。
「
お前など、生まれるべきではなかった」
――と。
それは凡そ人の親が発していい言葉ではないはずで。
しかし、当時のわたしはその台詞と、捲し立てる男の形相とが頭にこびりついて、事あるごとに恐怖した。
そんなことを口走ったあの男と、それについて従う数年歳上の女は、わたしに対して何一つ反応することはない。
……当然だ。
女と男が混ざりあった身体に生まれただけでない。
人ならざる力までもこの身に宿した娘など、一体誰が可愛がれるというのだ。
客観的に見れば彼らの反応こそが正常で、母の行動こそが異常に映る。
双海の家系では特別珍しくもないそれら特徴を、二人が偶々
受け継がずにいたというだけで、世界の常識は逆転する。
わたしの存在を認めようとしない連中は、『無視する』ことを選んだ。
剰え、使用人を通して必要以上の外出を制限し、唯一許された学校への通学に至っても真っ直ぐ下校するよう徹底された。
交友関係は殆ど無く、校内行事の参加など以ての外である。
あんな者たちでも、世間一般では"父"や"姉"と呼んでわたしと結びつけようとする。
不愉快という感情すら湧いてこない。
無視されるのであれば、こちらも無視すればよいと気がついたのは、入学から一年ばかり捻くれた後のことだ。
あの男の所為で少なからず歪んで育ったであろうことは否定しない。
家庭内におけるわたしの立場がどうなろうと、もはやどうでもよかった。
それでも母に迷惑を掛けて、無理をさせてやいないかと心を痛め。
何年も、何年も、"家族ごっこ"を続けてしまった。
恐らくは、わたしが何歳になろうと、その関係が続くはずだった。
あの男
ただ一つ――
お父さんが母に手を上げさえしなければ。
◆ ◆ ◆
双海の屋敷、その東側一階に、シャンデリアに剥製に甲冑と、ただひたすらに大仰なものばかり飾られた食堂がある。
普段であれば目が眩むくらいの明かりに照らされるはずの室内も、この日はカーテンの悉くが閉じられ、備え付けの暖炉と幾つかの燭台に火が灯っているだけのひどく薄暗い空間が出来上がっていた。
そんな暗闇の中、光源の側にあって椅子に座ることなく、ただ背もたれに手をかけて扉を見つめる総髪の男が一人。
窓を叩く激しい雨と時折交じる雷鳴、薪の爆ぜる音が耳に馴染み始めた頃、ぎいと扉が軋み、長い白髪の女性が姿を見せる。
ゆったりとしたドレスに身を包んだ彼女は、入室して早々、小さく頭を下げて謝罪を述べた。
「ごめんなさい。待たせて……しまったかしら」
「元より期待していない。それよりも、私は忙しい。手短に話せ」
一瞥して、男は背を向けた。それから目を合わせようともせず、淡々と口を開く。
時間そのものは定刻通りだったが、呼び出した側が遅れてやってきたことに対して本来ならもっと怒りを顕にするところであっただろう。
彼はそういう性格であるし、彼女もまたそういった人間だ。紛いなりにも"夫婦"であるから、お互いによく理解してはいる。
けれど必要以上に突っかからず逸早く本題に入ろうとするのは、偏に彼が用件の中心人物を疎んでいるに他ならない。
「あの子を進学させたいという話、どうしても受け入れてはくれませんか」
「断る、と先月も同じことを言ったはずだな」
背中越しに、しかし確かな圧を伴って、男は即答する。
「小学校を許可したのはお前のしつこさに辟易したのもあるが、最低限の学習に必要性を感じたからだ。
だがこれ以上を許すつもりはない。屋敷の中を歩かせることすらも私は譲歩しているんだぞ。
……今後は外出も禁止だ。使用人を一人付けて部屋に入れておけ」
「そんな……あの子を何だと思って――」
「お前こそ、"あれ"を何だと思っているんだ。あれは人じゃあない。生まれてくるべきでなかった」
幾度となく耳にしたその言葉に、女は一瞬怯んだ。
そんなことを繰り返し口走るから"あの子"の苦しみが消えてなくならない。癒える筈の傷が却って広がっていく。
彼のそういうところが妻として、母親として許せないのだと憤る。
言葉を重ねるごとに狼狽える彼女の様子に、男が何か思うことがあるとすれば、それはきっと『呆れ』だ。
そんなことを何度繰り返したとて"あの子"が人並みに生きていけるはずがないのに。
彼女のそういうところが夫として、
父親として許せないのだと呆れる。
「まだ……まだそんなことを……それが人の親の言うことですか」
「いい加減に母親面するのは止めろと言った。目を覚ませ」
「目を覚ますのはあなたの方ですっ!」
雷鳴をかき消すほどの声量で、『父』と『母』は自己の主張をぶつけ合う。
どちらかが折れるまで続くであろうそれは、男のふとした心変わりから急転する。
何を思ったか、男は矢庭に反転して彼女に近付くと、肩に触れて強く突き飛ばした。
力いっぱい押された女はよろめいて後方に倒れ込み、大きな金属音を部屋中に響かせた。
いかな暗所でも家主である男はそこに"何があった"かを記憶していたし、況して近くには燭台もある。
感情任せの衝動的な行いを自覚するにも、また二人の言い争いに誘われて部屋を覗いた少女が事の次第を理解するにも、その明かりはあまりにも充分過ぎた。
「おかあ、さん……? なに、して――」
こいつはどうして鍵を閉めなかったのか、などとえらく冷淡に、冷静にぼやいて、男は耳障りな子供の声に漸く意識を向けた。
目撃されたこと自体は些細な問題だ。どうせ妻は自分に逆らえないのだから、この不愉快な娘を部屋から出さなければ誰にも漏れはしない。
つまり自分が今何をすべきかは明白だ。迷いようがない――はずだった。
――男が最初に認識したのは、光。
薄暗い食堂の隅々までも、眩しいほどに照らし出す緑色の光。
次いで視界に飛び込んできたのは強烈な閃光の先、少女の背後に浮かぶ人型のシルエット。
人の形をしているのに、人ではない何かが、確かにそこにいる。
「……おかあさんに、何をしたの」
「なに……?」
壁際に横たわりぴくりとも動かない女性と、入り口からじっとこちらを見つめる少女とを交互に見やる。
見れば分かるものを一々訊ねてくるな、と答えようとして、何故だか声が出なかった。
「おかあさんに何をしたの」
少女の問い掛けに返事は無い。
鰐の頭部を持った怪物を前にして、おいそれと口が開けない。身動ぎ一つ出来やしない。
唸り声が耳朶に触れる、ただそれだけで、言いようのない寒気が男の全身を包んでいく。
キ ベ ル ネ テ ス
「おかあさんに何をしたっ!」
「――――っ!」
吼えたのは、少女か、鰐か。
開かれた鰐の大口に、吸い込まれそうなほどの恐怖を覚え、男は無意識に後退る。
人型が振り上げた右腕、その手に握られた棒状の何かが空を切った瞬間、男は改めて己の罪を思い知った。
櫂が男の真横に振り下ろされて、食事用の長テーブル諸共、床板を粉砕したその時。
彼はさながら走馬灯の如く、双海の家系に於ける自らの立場というものを想起した。
双海の血には異能が宿る。それは何代も前から続く言い伝えだ。
実際に、双海の人間は『人ならざる力』をその身に備えて生まれ、また親から子へと受け継がれてきた。
しかしどういうわけか、そういった特質が現れるのは第二子のみであり、力に目覚めなかった長子が子を成してもその法則は崩れることなく、それが二人目であるなら能力は過たず遺伝される。
双海家当主、双海玄一が娘を疎んじるのはそれらの事情があってのことだ。
持たざる者
『長男』として生を受けた彼は、叔父の、弟の、そして次女の特異な力を目の当たりにして尚、事実を受け入れるだけの器量を持ち合わせては居なかった。
「子を殺めるな」「生まれ持った身体に手を加えるな」とは曾祖父の言葉であるが、そんな言いつけがあったからこそ、自分の娘を軟禁しようとして妻の反感を買った。
何故律儀に二人も子を作ってしまったのかと自分を責めたところで、答えなど見つからなかったから――
せめて、これ以上歪みが広がらないように心を鬼にする。
その考えは間違っていないと信じたかった。
いや、或いは"それ"と対峙した今この時もまだ、自分の選択は正しいと信じていただろう。
「――――だ」
不格好に尻もちをついて人型を見上げる男が、何かを言いたそうに口を開くのが見えた。
それがどんな顔をしていたか、なんてことは少女の眼中にない。
彼女の視界に映るのは、部屋に充満した黒い靄のような物体と、紅い水溜りに眠る母親の姿。
こいつ
「だから言ったのだ!
七夏は生まれてくるべきでなかったと!
双海のしきたりなど無視して、さっさと始末してしまうべきだったのだ!」
男がみっともなく吠えている。
通学路で目にした凶暴で醜悪な犬ですら、もっとキレイな声で鳴いていたと思う。
「
そんなものを持ったお前が人並みの生活を送れるはずはない!
人並みの幸せなど得られるはずがないのだ!
だから私は、双海の家を預かる者として"異常者"を封じ込め――――」
白黒の人を呼びに廊下へ出ようとして、背後で人型が唸る。
立て続けに迫りくる幾つかの音。何かが空を切る音。男の悲鳴。砕ける家具。轟く雷。
最後に一つ、何かが落ちるような――耳を刺す鋭い音が聞こえてきて、ふと気になった少女は再び食堂内に目を向けた。
「……なに、それ?」
視線の先で、小さなガラス瓶が床を転がる。
鰐頭は何も応えない。少女もまた、応えに期待してはいない。
辺りを見回しもせず、まっすぐ歩み寄って、子供の手には余るそれを拾い上げて覗き込んだ。
部屋の暗さとは無関係にどこまでも真っ黒な液体が、ちゃぷんと揺れる。
その、どんなものよりも深い黒に心奪われそうになった時、少女の意識は途絶えた。
◆ ◆ ◆
"空間を蝕む黒い靄。それはここにあってはならない異物。"
◆ ◆ ◆
混線した複数の記憶を改めるうち、判明したことが二つある。
イバラシティに訪れてからの出来事の幾つかは、
別のわたしのそれとほぼ同じだということ。
観測している世界の変動によってその場にいる人々、人間関係、ひいては時間にすらずれが生じていたが、双海七夏が関わった大きなイベントはどちらの世界でもごく自然に発生し、ほぼ同一の内容で滞りなく過ぎ去った。
まずあの街へ来たタイミングからして丸一年の差があるが、そういった事象も含めて矛盾が生まれないようになっているようだ。
一方に存在しない人物に関しては、他の人物に置き換わるか、出来事そのものが存在しない。
何かしらの修正作用とでも呼ぶべき現象が確かにある。
もう一つは、電脳化以前――小学校卒業前までの経験に一切の相違が無いこと。
これに関してはある程度の推測が立つ。記憶そのものは電脳化によって電子情報へと変換されるわけだが、そうなる為には大前提として手術を受けなくてはいけない。仮に少しでも時期が前後すれば、今と同じだけの電脳使いには成長しない可能性、加えて"守り人"として今日まで生き抜いてこられない場合すらある。
記憶の転写は半ば賭けのようなものであっただろうが、それを実行したのが"キベルネテス"なら、条件に合う対象を選定したのも"キベルネテス"だ。
これまで幾度も助けられてきた存在でありながら、未だに全容を把握しきれていない力。
果たして、わたしにはそれを従えるだけの資格があるのか。