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【1】
むかしむかし、あるところに。
盲(めしい)の男がひとり、住んでおりました。
盲の男は、目が見えないので、
苦労の絶えぬ暮らしをしておりました。
けれど不思議なことに、男はいつもニコニコしていて、
苦労など欠片もない、などと言うのです。
両親も傍におらず、山のふもとで一人きり。
時折行き過ぎる行商人と、物々交換で物を得て、
後は全て自給自足と言う生活。
常人でさえ音を上げる厳しい毎日ですが、
なぜだか男が倒れることはありません。
ある時、不思議に思ったひとりの行商人が
男の後を尾けてみようと考えます。
男の足は速くなく、杖を突き突き山を登るものですから
後を追うのも容易かろうと、こう考えたのです。
目が見えなければ狩りもできない、山菜もとれない。
それなのにあの男は飢える素振りもないどころか、病ひとつかからない。
ならばきっとあの男は、山の中にある恵みの園、
その場所を知っているに違いない。
ところが行商人、山に分け入って少しの後、
とんでもない考え違いに気付きました。
後を追うのが容易いなど、とんでもない。
道はなく、木々が茂って足元は常に暗く、坂は急。
獣の気配はそこかしこにあり、おちおち休みもとれません。
恵みの園などどこにもないじゃないか、と文句を吐いた行商人。
山の神のバチでも当たったのでしょうか。
浮石を踏み抜き、体勢を崩し、そのまま崖へと真っ逆さま。
谷底でくしゃりと潰れ、哀れ一巻の終わり。
── と、なっても、おかしくなかったのですが。
谷底に落ちかけた行商人の手を、盲の男が掴んだので、
行商人は九死に一生を得ることができました。
真っ青な顔で行商人は言います。
儂が悪かった。此処にゃ二度と入らねえ。二度と近寄らねえ。
だからひとつだけ教えてくれ。あんたは盲じゃあないのかい。
なんでこの山を、何の苦労もなく歩けるンだい。
盲の男は、やっぱり笑って答えました。
確かに私は盲だが、この山のことなら何でも分かる。
山が私を助けてくれる。
だから山のふもとで暮らしているのだと。
その言葉が本当かどうか、行商人には解りませんでしたが、
約束もあるし、気味も悪かったので、素直に山を下りて
それきり二度と近づきませんでした。
小屋を訪れる人間はこうして少しずつ減り、男はますます
ひとりぼっちになって行きます。
盲の男は、それでもニコニコと。
たったひとり、みすぼらしい小屋で暮らしました。
来る日も、来る日も、一人きり。
それでも彼は、ちっとも寂しくありませんでした。
何故なら彼は、山の全てを“識”っていたから。
木々の形、動物の住処、泉や川の場所。洞穴の深さ。
この山の中にあるものならば、どれだけ遠くにあったとしても、
意識を向けるだけでありとあらゆるものの形が分かります。
色や匂い、温度、味に音。そういうものは一切分かりませんが、
形だけならば目で見るよりも繊細に、はっきりと把握できるのです。
何処にうさぎの親子がいるのか。
何処に鹿が暮らしているのか。
何処にヒヨドリが巣を作っているのか。
何処に行けば水が汲めて、何処に行けば山菜が取れて、
何処に行けばキノコが生えているか……
ヒマさえあれば山に意識を向けている男は、
何でも知っていたし、だからこそこうして一人でも何とか
生きていくことができました。
男は考えます。
きっと自分はこうして、ここで一人で暮らし、老い、
やがては死ぬのだろう。
だがこの毎日は、少なくとも自分にとっては充分楽しい。
誰にも理解されないが、暮らしに不満など一切ないのだ。
こんなに贅沢な一生があるだろうか。
こうして、盲の男はいつまでも、いつまでも……
山のふもとの小さな小屋で、毎日毎日ニコニコしながら過ごすのです。
今日も。明日も。明後日も。
ある日。
山の奥にある泉の傍に、それまで『識った』ことの無い
カタチを見つけるまでは。
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