──曖昧な記憶だ。
とても曖昧で、そんな事が本当にあったかさえ不明瞭だ。
世界すら、信じて良いのか分からないくらい曖昧だ。
なにもかもが夢みたいに朧気で、謎だらけで。
そもそも本当の事など在りはしないかのようで。
もし。
もし、そうじゃないと言うならば。
私の夢に訴えかけてくるあの人達は、誰だろう。
私の事を繰り返し罵倒する、"私"は一体何なのだろう。
私は、私の世界は、それらは、……それらは
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「本当に存在しているの?」 |
おいで おいで 迷路に おいで。
彼方も 此方も 解らぬ 場所へ。
たった ひとりで 右往左往。
遠くに 見えるは 魑魅魍魎。
ほんとの わたしは 何処なのか。
それすら よやみに 吸い込まれ
もう何処にも 在りはしないのか。
知世子には沢山の"わからないこと"がある。
到底解けない難問、凝っていて難しいお菓子作り、自分の見ている星空のその先の世界、自分の未来。
知世子には沢山の"わからないこと"が増える。
幼馴染みの秘密、大人の苦悩、不穏な影、そして自分自身。
最近、その"わからないこと"は妙に増加する傾向にあった。
積み重なり、降り積もり、知世子を惑わすように。
塵芥のようにつまらないものだったらまだしも、見逃せないような鋭利な破片すら見つかる。
それは触れると確実に牙を剥いて、癒えぬ傷を作っていく。
"わからないこと"は"わからない"から、徐々に"こわい"に変わっていく。
手当てもされぬままの傷はじくじくと膿み、悪い方向へと転がり落ちていく。
しかし麻痺していく神経の中では、自分の傷の痛みもまともに気付けない。
知世子はじわじわと、ゆっくりと、しかし確実に傷を育てていく。
"平和に生きられないかもしれない。"
"この幸せは張り裂けて、無くなってしまうかもしれない。"
"大事な人達が、いなくなってしまうかもしれない。"
そんな予兆は、不穏に伸びていく黒い影は、普通の中学生には重かった。
知世子の世界はとても広くて、それでいて狭い。
もっと世界の外へと手を伸ばそうとしていても、幼い知世子の世界はまだ"友達や家族、恋人と幸せに過ごせる範囲"程しかない。
世界が変わらず回り続けようとも、他の皆が幸せになろうとも。
知世子のその範囲に、世界にいる人達が、幸せではなくなったら。
最悪消えてしまったりでもしたら。
知世子にとって、それは世界の滅亡に等しいのだ。
そんな滅亡の予感に知世子は怯えながら、また夢を見る。
──それが"知世子"だけの話であったならば、どうせただの捏造だ。
そうであったならどれだけ良かったか。
"知世子"の悪夢に出てくる誰かは、チヨ子がアンジニティに来る前に出会った人々だ。
イバラシティでは夢に出るのは不思議だが、分からないのは仕方ない。
だけどどうして、名前が思い出せない?
チヨ子の姿の時でさえ、その記憶は穴が空いたように戻ってこない。
それどころかその人達がどんな顔をしていたかすら、徐々に思い出せなくなっている。
大事なものを貰った、忘れちゃいけない大切な人達がいっぱいいた筈なのに。
私は皆から愛を貰って、それで生きているのに。
それを忘れてしまっては、いけないのに。
感情とは裏腹に、笑顔も暖かさも何もかもが手から滑り落ちて、穴がどんどんぽっかりと広がって。
チヨ子はそれに対して、どうして、なんで、と繰り返すしかなかった。
チヨ子は無力だった。
今まで自分が救われたことはあるし、救った事もある。
そう思っているし、そう言われたから。
だけどチヨ子は分からなかった。
自分の救い方は、分からなかった。
この消失を、広がる空虚を、誰に言う訳にもいかなくて。
ただ呆然と空いた穴を見つめては、立ち尽くすしかなくて。
チヨ子が出来るのは、もう"大切だった"という事しか分からなくなりつつある記憶に対して、さようならと別れの挨拶をする事だけだった。
失いたくない。
けど、もう大事な物の意味すら分からなくなりつつあるから。
だから、覚悟を決めねばならない。
何度でも。
自分を殺す程の覚悟を、何度でも。
忘れたとしても、何度でも、何度でも。
星は未だ明滅し続ける。
弱いながらも、その存在を主張し続ける。
生き続けようとする。
時間は進む。残酷に。
空虚は蝕む。凄惨に。
【堂々廻りの邪竜と贄】
大人になりたかった、というのはきっとあっただろう。
大人の姿になれたのは、あくまで【オレ様】の意図の可能性もあるが。
それでもやはり、昔は大人に憧れてはいたから。
大きくなった昔の同級生に会って一緒に食事をしたり、夜に酒を飲んでゲームしてはしゃいだり。
そういうのがずっと羨ましかったのだ。
やっぱり大人になりたかったなと、今でも思える。
父親の店だって、継ぎたかった。
もう少し頑張れば、自分だって父親に匹敵する物が作れた筈だ。
言ってしまえば、そんな未来は訪れなかった。
誰も彼もに平等にやって来ると思っていた未来は、当たり前に手に入るものじゃなかった。
オレに与えられたのは、冷たくて誰の手も届かない場所だった。
"此処"は冷たい。何の温もりもない。
誰もいないし、きっと誰も知らない場所だ。
そしてオレの事も、きっと誰も知らないのだ。
それでいいと思っている。それがいいと思っている。
オレが海底から抜け出す時、【オレ様】もまた陸に這い上がる。
災厄を呼び起こす邪神を、その邪神の子を生み出す存在を、誰が望んで引き上げる?
オレは"望まれない"し"臨まない"。
悪辣なる神々をこの身体の中に廻らせたまま、ずっとずっと此処に居る。
"望まれる"ものは海底から押し上げて、"臨むべき"ものへ導いていく。
【オレ様】を"臨ませない"し"望まない"。
例え自分を否定した世界だとて、オレは決して嫌いじゃなかったから。
オレは喜んで人柱になろう。
誰も彼もから忘れ去られ、孤独な深海に身を沈めよう。
それでいい。本来オレは此処で終わるべきだったのだから。
死ねない代わりに、堂々巡りの生の中に、【オレ様】も一緒に閉じ込めてやる。
──引き裂けるような痛みが走る。
意識はある。なくなる筈がない。生かされる。
肉が空気に触れて、何かが溢れ落ちて、冷えていく。
それでも生ぬるさは消えない。命の灯火は絶やされない。
邪神は、【オレ様】は、
ハザマを彷徨う。