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人間が何か行動をおこす。──そこには殆どの場合、何か理由が存在する。 「理由など存在しない」と、もしその人間が言ったとしたら── ──その人間は欲がないか、そもそも人間ではないかのいずれかである。 |
ざあざあと降り注ぐ大粒の涙の下。光一つ届かぬ漆黒の空の元。そこに一つ、今にも消えそうな存在がいた。
それは文字通り──誰の視界にも入らない、誰の気にも止まらない……いなくても変わらない存在だった。
人間としてみれば、齢十桁にも満たぬほどの存在。その身体とボロ着はまるで、ドブ水で洗濯したかのよう。
もとは明るかったであろうその白群は、泥と砂で濁り……光の灯らぬ深緋は、ぼうっと地面を眺めていた。
「自分という存在は、近い未来直ぐに死ぬ」──それをこれは十分以上に、悟ったかのように理解していた。
その終焉は、自分の身体が限界を迎えることにより訪れるのかもしれない。
もしかしたらそうではなく、自身の姿に気づかない存在に踏み潰されることにより迎えるものなのかもしれない。
しかし、それがどちらであったにせよ──
──死という近い結末をとうに覚悟していたがゆえに、その過程などどうでも良かった。
ただ、出来ることならば「さっさと」死にたい。これに残っていたのは、その程度の願望であった。
────声が、聞こえた。『お前はどうしたいのか』、と。
頭の中から聞こえたその声自体に疑問を抱くよりも先に、別の疑問をこれは抱いた。
「──自分は、どうしたいのだろう?」
……どうしたいかだなんて、考えたこともなかった。
死ぬことが決まっていて、それの備えも覚悟も終えたこれにとって──
──『どうしたいのか』などという願望は、そもそもとしてなかったのだから。
──ああいや、やっぱりあった。"私"は『さっさと』死にたいのだった。
『可及的速やかに』『早く』『疾く』死にたかった。
"何も考えずに済む"未来。そういうものを早く迎えたかった。
『さっさと死にたいのならば、いい場所がある』──続けて声が聞こえた。
流石にこれもこの時に至って、なぜその声が聞こえたのかが気になった。
しかし"私"の願い通りにさっさと死ねるのであれば、その理由などどうでもよい。──そう、思った。
──これは残された僅かな体力を使い、声の示す場所へと向かった。
名もなき少女
己の出自を知らぬ、齢十にも届かぬ存在。
耐え抜くこと以外に、秀でることなどなにもない。
早く死ぬことが、彼女の望みであり願い。
──途中、死ぬことが出来る機会はたくさんあった。
煙を撒き散らし、私に泥水を浴びせ走る鉄の塊の前に、飛び出すことも出来た。
それを避けるために通った、陸と陸とを空中で繋ぐ両手から、飛び降りることも出来た。
──しかしそれらをしなかったのは、『だめだ、それではさっさと死ねない』という声が聞こえていたからだ。
たどり着いた場所は、路地裏の行き止まりだった。そこには、先客が居た。
ひとりは私などの存在よりも、遥かにはっきりとした存在の人間。
その手には、光を反射する銀色のものを持っていた。
──そして、もうひとり。それは地面に転がっていた。
何かをみて絶望しきったような人間の表情を張り付けた顔と、それがついた身体。
地面に転がっていても、なおはっきりと感じられるほどの存在であった。
これが二本の足で立っていた時はきっと、今以上にはっきりとした存在であったのだろう。
先の人間のそばに転がるこれの首元からは、自身の瞳と同じ色の水が流れていた。
ここではじめて──ああ、この存在は死んでいるのだな。と、私は思った。
私という小さな存在の比にはならないほど大きな存在が、私などよりも先に、簡単に死んだのだな、と。
同時に、理解した。
目の前に立つ彼が、その手にした銀色のもので、この存在をこの状態にしたのだということを。
その人間が私の方に振り返ったとき、私は、ひどく安心していた。
これほどまでに大きな存在に死を贈った"彼"ならば、自身のような矮小な存在など、
それこそひと思いで潰してくれるだろう、と。そう思ったからだ。
「さっさと死ねる」とは、そういうことだったのか。
頭の中に聞こえた言葉とそれを発した見知らぬ主に、私は感謝をしていた──
──それなのに、だ。
あろうことかその"彼"は、私をじっと観察し終えたと思ったら、この軽すぎる存在を拾い上げたのだ。
『──とても、小さな存在だ。危うく、踏み潰してしまうところだった』
『気づけてよかった。私はこの存在を、見落とすわけにはいかない』
──私には、その言葉が"彼"の独り言のように聞こえた。
自身に向けて掛けられた言葉であるなんて、理解が出来なかったからだ。
自身が声をかけられるほどの大きな存在であるなど、微塵も思っていなかったからだ。
『──反応も出来ないほど衰弱しているのか。なら仕方がない』
『私は君を連れ帰る。嫌なら──抵抗するといい』
『しないのならば──それは申し訳ないが、連れ帰ることに対しての"肯定"と受け取らせてもらうよ』
"彼"はその言葉の後、少しの間を置いた。おそらくはその言葉通り、抵抗する時間をくれたのだと思う。
しかしその余力なんて、この場所に来るまでにその全てを失ってしまっていた。
きっと"彼"は私が抵抗できる体力を残していないことを承知の上で、私をすくい上げたのだろう。
そんなずるい"彼"は、間が終わればその言葉通り、私を抱えて歩き出した。
──これが、私と"師"の出会いであった。