…笑顔のはなし
笑顔が嫌いだ。
でも誤解しないで欲しい、決して笑顔が悪いものだと言っているわけではない。
笑顔に隠されていることが嫌いだ。
相手によく思われるための上面が嫌いだ。
僕の遠い昔にいるあれらも、そういうものばかりだった。
僕に一番、それを向けていた人物は
僕に価値がないと知ると、途端にそれは剥がれ落ちて。
目的が果たせないと理解したのに、捨てきれないのかしがみついて
どうにもならないと知りながら、僕の前を去ることはなかった。
家のものの前ではまだ冷静であると振る舞っていたようだけれど
周囲の目がなくなるとヒステリーを起こすので、僕は機嫌を損ねないように息をひそめた。
おとなしくしていれば、言うことを聞いていれば。
罵られるか、嬲られる程度で済むのだが、僕が楽しんだり笑ったりしているのを見ると
それはもうひどく痛めつけてくるので、僕は笑わないように気持ちを抑えることを覚えた。
僕は。
あの日、失敗したのだ。
あの生活の中で、好きな生き物がひとつあった。
(正確には一つじゃあない、蔵には色々な虫がいたし、鼠も出たことがあったけれど)
蔵のたかいたかい、位置の窓。
景色を見ることも叶わない、ただ空気が通るだけの窓からやってきた、小さな来訪者。
初めて見るものに驚いたけれど、調べてみたらそれが鳥だと知った。
綺麗な羽、小首をかしげる様が可愛らしく、とても良い声で鳴く。
しばらくはその小さな来客と秘密の会談を楽しんでいた。
それを見つかってしまった。
殴られるかと思った、でもあれの矛先は僕ではなく、鳥の命を摘み取ることに向いたのだ。
その方が僕を痛めつけられると思ったのかもしれない。
泣かなかった。
泣けなかった、まったく、悲しくなんてなかったので。
あんなに好きだったのに、こんなに好きなのに、涙はおろか声を一つあげることはなくて。
結局その後、散々痛めつけられたけれど、それもどうでもよいことだった。
あれが居なくなった後に、打ち捨てられた鳥だったものを拾い上げる。
こんなに綺麗なのだ。もう動かなくなってしまったのに、もう鳴かないのに。
こんなにもきれいなのだ。
少し、ひしゃげてしまっていたが、その綺麗な鳥の羽を一つ一つ引き抜いて
すっかり丸裸にしてしまう。
お気に入りの棚の上に白布を敷いて、その上にそっと置いた。
羽も丁寧に並べて、とても綺麗だった。
隠すための蓋をして、それから毎日眺めていた。
…けれどそれも長くは続かない。
異臭がすると、あれは言った。
腐敗した鳥から漂う匂いだ。
原因はすぐに突き止められる、騒ぎ立てるあれの声は、耳障りだった。
そして。
あれが、鳥を捨てようとした。汚いと、そう言って。
とても嫌な気分で、考えるより先に手を伸ばしていた。
あれの目に僕がどう見えていたのかはわからない。けどおそらく…失敗したのだろう。
あの家庭教師は、とても楽しそうに笑った。
もっと上手く隠せていれば。
もっと大事にできていれば。
この日、蔵を出て、世界を知ることもなかったのかもしれない。
:
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蔵での生活は、自由とは言えなかったけれど
それでもあの蔵の中で言えば自由であったし、好きなものも沢山あって
それなりに気に入っていたので。
例えこの話を誰かにしたとして、そのものが思うほど辛いものではなかったと
今でも思うことがある。
僕があの日に学んだことは、
大事なものは、誰にも取られないところに、しまっておくということ。
そしてそれを成すための異能の発現だった。
笑顔は悪いものではない。
それが見えている間は害されることはない"はず"の、"安心"を図れるものだから。
けれど笑顔は信用できない。その裏に何かがあると思ってしまうからだ。
なにごとにも例外はある。
廿里 崇司の経験の中でも、その家庭教師の笑顔が最たるものだ。
結局のところ、笑顔は判断材料に過ぎないということで
安心や信頼、庇護などを向けられ育つことがなかった彼にとって
安心の材料になり得るものでは無い。と、いうだけの話である。
───そして現在。
イバラシティに居る廿里 崇司という人間は、他者と接する時に笑顔を作る。
意図的な笑顔は、"無害である"と示すため。
嫌いだと自覚しながらも、己もまたその手段を使う。
結局のところ。己もあの家の人間と同じ、何一つ変わることはない。
…それだけのこと
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つづり 「そのはずだった…」 |
…それは緩やかな"変化"。
廿里崇司を脅かし、恐怖させるもの