薄明かり。朝を知らせる小鳥の声。朝のニュースの音声に、ぼんやりと見上げる天井。
いつも通りの朝の光景。いつも通りじゃないのは、しんと静まった目覚まし時計。
「なつ、八時半過ぎてるけど、起きなくていいのか?」
「ぅえ……? あっ、ヤバ。かけ忘れた!」
ばさりと両足で布団をはねのけて、なつ子は目を覚ます。
その音があちらまで響いたか、台所から声をかけた男がくつくつと笑う声が聞こえた。
「いいよ。メシはすぐ出来るからさ、もう少し寝てなって」
「ごめん……。ありがと、英司」
「俺先に会社行くから、鍵はよろしくな」
そう返されると、すぐに食欲をそそる香りが漂い始める。
香ばしいトーストに、よく煮込まれたトマトスープ。時短料理なんて、可愛らしいものではない。一瞬の出来事だ。
――この男の異能は本当に便利なものだなと、毛布にくるまりながら、なつ子は考える。
革靴、蝶番、鍵が回る音。彼の出かけていく気配を確認して、なつ子は今度こそ布団を這い出た。
向かうテーブルに並べられた朝餉は、どう見ても、朝支度の合間にこしらえたものとは思えないほどに豪勢なものだった。
手を合わせ、寝ぼけた口にトマトスープを運ぶ。
――あたたかい。
(こういう異能に、生まれてきたかったなあ……)
テレビの右端に浮かぶ時刻を注視しながら、なつ子はしみじみとその思いを反芻した。
前田英司。なつ子よりは一回りにならない程度に年上の男で、数ヶ月前から「そういう関係」だ。評価をするなら、素直に良物件だろう。
勤め先ではそこそこのポストを担当しているらしく、金銭的な世話も惜しみなく行ってくれるし、そして何より料理がうまい。
彼が持って生まれた異能は、「近くにある材料を瞬時に成果物に変える」というもの。
彼はその異能を活用して、なつ子も名前を知っていた有名レストランに勤務している。日常生活から有事の際まで活用幅の広い、”アタリ”技能だ。
英司以外にも、異能を活用して生計を立てている者は多い。
対するなつ子の異能、「聴跳強化」は正直”ハズレ”そのものだった。
聴力と跳躍力を強化する異能。しかし、強化幅としても半端すぎる。
聴力を上げたところで、数キロ先の出来事まで把握できるわけでもなければ、跳躍したってせいぜいマンションの二階が限度だ。空が飛べるわけではない。
おかげさまで足腰はしっかりしているから、山坂や階段が苦にならない利点こそあるが、異能が生活を豊かにしてくれるのは、精々そのあたりまでだろう。
異能で得をする者がいれば、それに押しのけられる者もいる。
力仕事であっても、筋力強化や重力無視、巨大化の異能さえあれば女性の方がずっと役立つし、相手のニーズに合わせて変身できる異能さえあれば、性別や年齢を無視したアクターになることだってできるかもしれない。
だが、ぴょんぴょん跳ね回るうさぎのようなこの異能に、そんな力はない。
いや、ごく希にならあるかもしれない。ただ、この異能が役立つ状況というのは、大抵あまり良い状況ではなかった。
マンションの二階ほど下、いや、エントランスか。誰かの話し声がなつ子の耳に飛び込んでくる。
「そういえば、上の前田さんって、ご結婚されたのかしら。奥さん、ずいぶんお若いのねぇ」
「やあね、アンタ知らなかったの? みんな大きい声じゃ言ってないけど、フリンよ、フリン。前田さん、単身赴任なのよぉ。前に奥さんとお子さんが遊びに来てるの、何度か見たもの」
「んまっ。……あらあ~」
その後は聞かないことにした。おそらく今頃彼女たちは、自分たちがどんな生活を送っているのかという妄想話で盛り上がっているのだろう。
あまり否定できそうにないのが、悲しいところだが。
さしてショックはない。そういう話はちらほら飛び込んできていたし、彼に限らず、今までだって何度も起きたことだ。
ハンサムで優しく収入もよく、男なのに料理だってうまい。そんな男性が単に縁に恵まれずフリー。
基本的にはあり得ない。
ウラがあるのが世の常だ。彼もただ、その一人だっただけ。
(……できたらもう少し続けたかったけど、潮時だなー……)
食器を片付けて、仕事道具の放り込まれた鞄に、寝泊まりグッズを追加した。もう二度と、この家には帰らない。
英司から、彼に妻子がいる情報はまだ一言も聞いていなかった。
今のうちに逃げ出せば、大人の男に騙された、哀れな娘の立場で終わる。
聴力強化が今の暮らしで唯一、そして最も役立つ用途はおそらく、他人の情報の傍受。
これに何度も助けられ、そして何度も彷徨わされている。
この役立たずの耳は、破れかぶれな暮らしをする上での、最後の切り札だ。
だからこそ、なつ子は基本的に、他人に聴力のことを話したりなんてしない。
話すことは、お前を補足できると言っていることと同じ。
そうすれば、人は身構えるし、口は堅くなり、得られるカードも得られなくなる。
ドアを開けると、いつも通りの朝日がまぶしくて、暖かだ。
何度も訪れたドアの鍵穴に合鍵を突っ込み、最後の施錠をして、なつ子は薄く笑った。
「ありがと、でもごめんね。ご飯おいしかったよ。バイバイ」
それだけ言って、なつ子は手のひらの合鍵を玄関ポストに突っ込んだ。