生臭い息が鼻にかかって、湿った肉に押し潰される。
肌の密着する感触が不快極まりない。べたべたと温く後を引く粘着質。汗が落ちて伝い落ちるのだってこの上なく。
それでも文句は言えない。だってこれは望んだことだから。望んで金銭を受け取って、その上で受け入れていることで、この手段を選んだのだって自分なのだから当たり前だ。
そうは理解していても無遠慮な手に肌を探られる感覚は未だにどうしても受け入れ難く、というかこの客が下手だ、最終的には金をくれるかどうかが全てだから構わないが、とにかくどうにか気を逸らしたくて、どうでもいいことに思いを馳せる。
――別世界からの侵略、だとか。
こんな時に考えるにしても馬鹿馬鹿しい話だけど。
異世界からの侵略者がこのイバラシティに紛れ込んでいる、侵略が成功したら自分がその異世界の住人になってしまう、だとか。
頭の中を突然流れて意味の分からないことを言い出したあの映像と声からどれくらい経っただろうか。一週間とかそれくらいか、どうでもいいからよく覚えてないけど。
良くわからないがあれも一つの異能によって発せられたものなのだろう。便利そうな異能で羨ましい。魔法少女になる、だとか、小さい頃はキラキラできて嬉しかったけど今となってはもう恥でしかないし。
こんなことにしか使えないし、それも本当は魔法少女になる必要なんて全然ないわけで、要するに自分の正体がバレなければいいだけの話だし。
笑える。お金が必要で、でも勉強もしたくて、時間が足りないなら身体を売ればいいだなんて、自分にそれを強いた人間たちと結局考えることが同じ。
っていうかこういうやり方しか知らない訳だけど。実際時間効率は最高で、お金はあんまりもらえないけどご飯奢ってもらえる時もあるし、苦労だって無い、耐えればいいだけ、本当に楽。
問題は私がまだ未成年ってことだけど、それだってこうして魔法少女の姿であれば、私が私であることはバレやしない。
――だいぶ目を惹く格好だって自覚はあるからそこに関しては気を使ってるけど。うっかりミスって足がついたりしたら溜まったもんじゃない。別に魔法少女になったって強くなれるわけじゃないし、ちょっと頑丈にはなってるみたいだけど。
違う違う。別のことを考えるんだった。なんだっけ。そうだ侵略。
侵略? やっぱり馬鹿らしい。そもそもいつまで経っても何にも起きないじゃないか。戦いを仕掛けられたり、誰かと誰かが戦ってる様子を見たりとか、そういうこともない。
いやなんかヒーローとか怪人? とか、そういうよくわからない人たちが戦ってるらしい話はたまに聞くけどそれだって侵略とやらが始まるずっと前からあったことで、自分とは関係のないことだ。
っていうかそうだ、ああいう戦う人たちがこの世界には普通にいるわけで。だからどうせ異世界の侵略にもああいう人たちが戦ってくれるんだろう。
結局最初から最後まで、自分みたいな下らない異能の持ち主には全然関係のない話なんだ。
家族がいなくなった時だって、借金を返せって知らない怖い人たちに捕まった時だってああいう人たちは何にもしてくれなくて何も変わらなかった。
というのは当然ヒーローだとか戦う人たちだって自分みたいな人間一人をどうこうするよりも世界だとか街を救う方が絶対楽しいしやりたいってことなんだろうし、実際そうするべきだと思う。
その方が救われる人の数が多いんだろうから。
だからどうでもいい。全部どうでもいい。世界をどうこうする力を持つ人たちが好きに頑張ればいい。
私には全部関係のないことだ。
■
「……大有りなんだよなぁ……」
突っ込む声は力ない。
地面にべったりと座り込んで項垂れたフレッドに、これまた相変わらず感情らしい感情を窺わせないテルプシコラが。
「私には感知できませんが」
「…………何が?」
「蟻が。幻覚でも見えましたか」
その大蟻じゃない。などと突っ込みを入れるのも完全に億劫だ。
だいたい分かった。分かるまでもないが分からされた。
小出エリカとかいうあの女、割と面倒な屈折をしている。
――自分なのだが。
「……いや俺じゃねえし……」
「いい加減認めた方がいいのではありませんか? 現実逃避。或いは拒否。そういった態度は極めて不毛なものと存じております」
「逆に訊くけどどういう態度なら不毛じゃなくなるんだよこれ……?」
真面目に教えてほしい。
割と切実な問いにテルプシコラは瞬き一つせずに、
「事実を受け入れて前に進む。罪を認め、繰り返さず、正しい人間として生きる」
「……いやまあ……いや…………」
それはまあ。そうなのだが。
そうなのかもしれないんだが。まあ。それが。そういうな。うん。なんだ?
――それをあの女に伝えられるんなら誰も苦労はしないんだが?
もう本当に問題はそれだ。
あの女、自分、自分なのか? 自分じゃないが少なくともあの女の記憶感情経験全てがフレッドのものとしてこの意識に残っている以上完全に切り捨てるのは難しいが、どちらにせよフレッドの制御下に置ける存在ではない。
フレッドが自分の意識を保って行動できるのはこのハザマという空間が展開されている間だけだ。例え自分の身体に警告を刻んだとてそれはフレッドの身体に刻まれるだけで、小出エリカという仮初の身体には残らない。伝わらない。
あの女がどういう間違いを犯していてもフレッドにそれを矯正する手段はない。
というのが事実であり現実であり。
さてはてそれを踏まえて、今このフレデリック・ナイトレイ、彼女の背負う罪とやらを果たして自分のものとして受け入れるべきなのか?
「……テルプシコラ」
「なんでしょう」
「お前は”あれ”が俺だと思ってるわけか?」
「完全に貴方であるとは認識していません。彼女の言動は貴方のそれとは掛け離れており、彼女の身体は貴方のものとは異なり、彼女は貴方の記憶を有していません」
それはそうだ。ちょっと安心した。
ここでフレッド=小出エリカだとか堂々とぶち上げられたら流石にちょっと揺らぐところだった。
が、テルプシコラは堂々と、
「しかし貴方は、彼女を完全に他人とは捉えていないでしょう?」
だとか割とクリティカルな一撃を。
そう。それが最大の問題で。
どうしても他人ではない。繰り返す、あの女の感情も、記憶も、経験も、それら全てフレッドのものとして置換されて自分の意識に刷り込まれている。
仮初の過去。仮初の記憶。仮初の接触。フレッドが感じたはずのない、経験したことがないそれが、全て間違いなく、忌々しいほどに鮮やかに。
「……最悪だ……」
「そんなにですか」
「そんなに」
マジでそんなに。本当に。心の底から。
とはいえ落ち込んでいても喚いていても仕方なく何も始まらないので、はあ、と最後に一つ大きなため息を吐いてから、
「……まあいいや。行くぞ、テルプシコラ」
「行く」
「ハザマ時間っての、短いんだろ。今のうちに少しでも行動しねぇと」
自分はこのアンジニティからの侵略に逆らうと決めた。
からにはただ這い蹲って文句を言っているだけではいられない。ぶっちゃけどうでもいいことでもある。いや全くどうでもよくはないが、少なくとも何をどう考えても解決しないことではあるので。
だから、まあ、
「……貴方のその切り替えの早さと行動力に関しては、私の見習うべきところと思考をします」
「行動力に関してお前にどうこう言われたくはないけどな……」
ひとまずは、全部終わってから考えよう。考えたい。
出来る限りは。考えられるか? もう分からない。
このハザマ時間が終わったら多分あの抱かれてる真っ最中に逆戻りなわけだし。いやだー。本当にいやだー。