魔法少女になれて良かった、なんて、思う人は実際いるのだろうか。
――チャイムの音というのは、奇妙に郷愁を駆り立てて胸に残る。
響き渡ったそれに教室の空気が弛緩、のちに解放感に膨れ上がる。
今日の授業がこれで終わり。部活のある人は部活に、そうでなくとも雑談に興じるクラスメイトのただ中でエリカは誰とも話さずに机を片付ける。
六限の授業ともなると終盤に差し掛かったあたりでさっさと机を片付け始める生徒の方が多いがエリカはそちらに含まれない方の生徒だった。そうなった。
勉強熱心、真面目、と言われればそうなのかもしれないが、エリカの場合はどちらかと言われると必要に迫られてそうしているだけだ。
何せ自分には他より余暇が少なく余裕もない。学校で授業を受けている間はどうせ拘束時間、この間にきっちり勉強しておかねばどうする、というやつで。
別に授業中の居眠りを咎める気はないけれども。たまに居眠りを咎めて授業を中断する先生がいるからそういうときは勘弁してほしいと思うものの。
そう思いながら目を擦っているクラスメイトの横を擦り抜け、何やら世界の侵略がどうとか盛り上がっている男子の隣も通り抜けて、最後まで誰とも話さずに教室を出る。バイバイ、とかって手を振られたように見えたのはエリカに向けてではなくエリカの後ろにいた女子生徒に向けてだ。分かりきっているので反応はしない。
一応弁解すると。
いじめられているとかそういうわけでは多分なく。
真面目すぎるから敬遠されている、とか、まあそれは多少あるかもだけど申告ではなく。
エリカに話す相手がほとんどいないのはただ単純な話で、高校を二年も留年しているから、というだけだ。
「まあそれでもコミュ力高い人ならちゃんとクラスに馴染むんだろうけど」
独り言に返事はない。勝手にエリカのベッドを占拠してごろつく黒猫にそれを期待しても仕方のない話だが。
さっさと家に帰ったエリカはこれまた手早く制服を脱いで、変わりに着るのは地味なタートルネックにジーンズ、花の女子高生から野暮ったい女に様変わり。まあもともと2ダブで花の女子高生も何もないのだが。
普段使っているスマホは家に置いて、代わりのよく分からない機種の二台目を鞄に突っ込む。後はパーカー。これまた地味な色の、それと待ち時間とか暇潰しに読む英単語帳も詰め込んで、それじゃ、と猫を振り返って、
「……稼ぎに行くから。出てきちゃダメだよ。ちゃんと家にいなね」
とは、いつも言っているのだが。窓の鍵も締めているのだが。
欠伸だけして生返事すら返さない猫が、いつもどこから部屋を抜け出しているのやらエリカの中ではなかなか大きなミステリーだった。
――そう、稼ぎに行く。
エリカに家族はいない。弟妹だけ連れて借金だけ残して蒸発した両親に取り残されて、今は学生向け安アパートに一人暮らし。
借金取りに捕まったせいで高校は二年留年してて、でもそれを取り返すために勉強は真面目に。大学に進みたいから倹約して、絶対落ちるわけにはいかないし滑り止めなんて受けられないし塾とか予備校なんて絶対無縁で。
金もないのにスマホを二台持ってるのは、うっかり落としたり盗まれたり覗き見られたりした時に万が一にも足がつかないように。
それでそんな時間も金もない女がどうやって稼いでるかってそんなのは単純な話。
花の女子高生、ではなくとも若い女の身体と笑顔とお愛想に、お金を払ってくれる人々と付き合うのだ。
とはいえど。
未成年の買春は犯罪で、エリカがやってるのは本来いけないことで、警察に見つかったら困ることで、それを自覚しているから足がつかないようにスマホも二台持って。
でもそれだけではきっと足りなくて、じゃあどうしてるかって言うとこれまた単純な話で、
――いや単純か? 単純かどうかはちょっと人によって意見が分かれるかもしれない。どうだろう。だいぶ難しい。
まあでもとにかく、エリカは売春をしているのだ。していて、捕まりたくない。捕まらないためにエリカは異能を使っている。
イバラシティの住民なら誰もが持っている何らかの異能。エリカのそれは、まあ一応、こういう時にだけは多少、初めてだいぶ役に立った。
――『魔法少女になる』なんて馬鹿げた異能が、何やら役に立ってしまったのだ。
■
「――立ってどうする!!」
熱に炙られたように拳が痛む。
当たり前だ。拳よりも地面の方が硬い。力任せに打ち付ければそんなものは痛いに決まっている。
が、それよりも余程熱いものがあって、今のフレッド――フレデリック・ナイトレイの中ではその方がずっと重要事項であった。
あったがために勢い任せにもう一度地面を殴りつけて、流石に今度は脳が痛みを認識した。脱力した身体がべたりと地面に潰れる。
といった一連の謎の悪戦苦闘を見下ろして、シスター服の女がゆっくりと口を開いた。
「這い蹲っていませんか?」
「……立ってどうするってのはそうじゃなくて……」
ぶつぶつ言い返しつつも自分のだらしのなさは自覚していたのでぐずぐずと上体を起こすとローブを叩いて砂埃を払った。
女――テルプシコラと言えば相変わらず何も分かっていなさそうな表情をしている。そもそもこの同行者が何かを理解したというような顔を見せたことは一度もないのだが。
第一表情の変化というものが殆ど稀だ。機能としては所有しているらしく必要に応じて取り繕ってみせることはあるものの、それがフレッドに対して発揮されることはない。
とはいえ。多少心配にはなったので。
「テルプシコラ、今の状況分かってるか?」
「理解しています」
敬虔なシスターのように掌を組んだテルプシコラが、相変わらず感情の籠もらない声を吐く。
「アンジニティに迷い込んだかと思ったらイバラシティに漂流していた。以上でよろしいですか?」
「……うんまあそうだな!」
「その通りです。肯定をしました」
シンプル過ぎる。あまりにも。シンプルイズベストとは言うが。
実際そうだとしか申し上げられないのだが。
魔性の棲まう辺境の調査中に明らかに違う空気の世界に辿り着き、そこが否定の世界アンジニティだと知らされた。
否定され追放された者が棄てられる世界アンジニティ。テルプシコラは自分が神に背く筈はないと断言したが、フレッドの方には心当たりがないわけではなく。あれとかそれとかこれとか。というかテルプシコラという存在そのものも割と。
まあ今はいい。今思えばそんな、アンジニティに迷い込んだとか否定とか棄てられたかもとかそんなものは全然全くもって些末な問題だ。
だってアンジニティではフレッドはフレッドだ。それはもう。完全に。周囲の環境は全く慣れない、酷く荒れ果てた劣悪な世界で治安も悪く、生き延びるのにも割と精一杯、テルプシコラがいなかったら危なかったかも知れない、というようなレベルだったが、今になって思えばもう本当に全部何もかも些末。
何故ならイバラシティでは、
「ワールドスワップの効果によりイバラシティではフレッドは娼婦に、私は黒猫に変化しています」
「がっ!!」
一番突き付けられたくない現実を勢いよく叩き付けられて再びフレッドは地に沈んだ。
「フレッドがフレッドで、私が私でいられるのはこのハザマなる空間が展開される一時間のみ。ハザマが終われば私は再び黒猫に、貴方は娼婦に戻ります」
「…………」
「イバラシティにワールドスワップを仕掛けた者の言葉によると、このハザマでの戦いによってアンジニティはイバラシティへの侵略を進めていくとのこと。アンジニティ側が勝利すればアンジニティの住人はイバラシティの住人に、イバラシティの住人はアンジニティの住人に入れ替わります」
「……そうだな」
だいぶきちんと理解しているらしいので良かった。まあ基本自分より頭いいしなこいつ。倫理とか常識とか配慮とかそのあたりダメなだけで。
が、異論を唱えたいこともあり口を開きかけたフレッドを遮るように、
「ワールドスワップが完了したら、フレッドは娼婦になるのでしょうか」
「なるか――――!!」
なるか。
なってたまるか。というか。
「娼婦か!? アレ娼婦になるのか!? 学生の方が正しくないか!?」
「貴方が気にかけているのはそちらの行動の方と認識しました。ので、そちらがメインかと」
「違うだろ!! 学生の本業は学業だろ!! そういうことになってるっぽいだろ!! 娼婦は……娼婦か!?」
そりゃまあ身体は売ってますけど。
いやまあ身体、売ってるんだよなあ。
アンジニティ側の住人はワールドスワップによって『仮の姿』を与えられてイバラシティで暮らすことになる。
というのは、まあ多少なりとも理解ができる。この薄ら寒い侵略のために侵略者が正体を隠すのはまあ必要なことなのだろう。分からないけど。
イバラシティで『仮の姿』で過ごす間、自分たちはアンジニティでの――本来の記憶や姿を失う。というのも、うーんと、これ必要? 分かんないけど必要らしい。ホントに分かんねえな既に、でもまあいいんだよそっちはこの際。
最大の問題はそんなことじゃなくてじゃあ何かって、そんなもんはフレッドがイバラシティで与えられた『仮の姿』の方で、
「生活苦から売春行為に手を染める女学生を娼婦扱いするのは正しいのか!?」
「でも貴方ですよ」
「俺じゃない!!!」
なんでこんな心底意味のわからないシチュエーションに陥っているのか。
もっとなんかあるだろ。仮の姿にしても。もっと。
っていうか性別まで変わる必要があるのか? せめて選ばせてほしい。ほしかった。くれ。今からでも。
相変わらず感情を窺わせない顔で自分を見るテルプシコラの方は猫だっていうんだから気楽で羨ましい。猫に九生ありとは言うし猫は猫で大変かも分からんが少なくとも本人が悩んでいる様子はないし。そもそもこいつに悩むという機能が以下略。
いや一口に娼婦がダメだとは思わない。思わない? うんまあ。あんまり認めがたいけど。それが生きるのに必要なこと、必要に迫られた選択であるのなら責められないというか、手を差し伸べてやれない自分たちの方が悪いわけでそれだけで糾弾しようとは思わない。
でもどうやらイバラシティでは二十歳以下の人間の性的行為を通した金銭授受というのは違法らしいし、自分、自分じゃない、本人もそれを分かっていて法をくぐり抜けてるわけでそんなのは良くないと思うし。
っていうかもうそういう建前とかどういうの本当に何もかもどうでも良くなるくらいに、とにかく。
「……せめて抱かれるのはナシにしろ……」
――本当に、本当に、本当に一番最悪なのは。
イバラシティにいるときの自分――暫定自分――には自分の人格と記憶は引き継がれないくせに、こうしてハザマにいる自分はそれを引き継ぐことだ。
記憶も。知識も。経験も。体感も。
突然に何もかも、『イバラシティの小出エリカ』のそれが今フレッドの頭には『自分のもの』として残っており、だから。
小出エリカの経験はフレッドの実体験として刻まれる。
小出エリカが勉学に励むのも、猫と会話するのも、地味な格好で路地裏に向かうのも、
その先で不埒な男の手にかかるのも、
全て、全てがフレッドが経験したこととして――。
「――――っ」
生肌を直接触れ回るかさついた掌の感触が不意に蘇る。
この肌が触れられたことはないのに、有り得ないのに、それを自分のものではない――そう却下するだけの胆力をどうすれば備えられるか。
今のフレッドには皆目見当がつかなかった。