
──赤黒い世界。血に塗れた汚い世界で、私はずっと蹲っていた。
襲い掛かってくるのならば、それに触れた。触れれば全て飴玉に変わった。
それを口に入れる気力すらなくて、私の周りには飴玉がたくさん転がっていた。
私は、どうしてこんなところで蹲っているんだっけ。
光の差さない、何も動かない。時計の針も進まない。そんな場所でこうして一人で蹲って、随分時間が経った気がする。
動くものに寄り添って、呼ばれる声に振り向いたことだってあったはずなのに。
名前すら思い出せないけれど、大事な、かけがえのないものがあったはずなのに。
どうして私の手元にはそれがないんだろう。どうして私の手を誰も握ってはくれないのだろう。どうしてみんないなくなってしまうのだろう。
誰かが、手を差し伸べてくれたこともあった気がする。
この暗くて汚い世界で、自分なら大丈夫だと、手を取ろうとしてくれた人もいた気がする。
でも、その人はここにはいない。いないということは、床に散らばる飴玉の内のひとつになってしまったのだろう。
どうして、私は誰かの手を握れないのだろう。どうして、私は誰かと共に歩むことができないんだろう。
──罪は、消えない。忘れたって過去はなかったことになんてなってくれないし、時間は巻き戻ってくれない。
──なら、泥臭くて最悪な手でも、自分にできることをするしかないと思ったから。
『ねえ、いらないなら、ちょうだいよ。』
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???? 「ふふふ、ふふ。やーい、負けてやんの。」 |
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コメット 「……楽しそうだなぁ、まったく。」 |
じゃり、と砂を手で掴む。地面に倒れ伏してからしばらく意識が無かったが、どうやら命は助かったらしい。
右手の指の飴化はだいぶ進行してしまっている。……そこだけは痛みも感じなかった。
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コメット 「ッ、………っげほ……」 |
口から血の塊を吐き出す。……命は助かったとはいえ、受けた傷は浅くない。
顔、腕、脚には無数の切り傷や噛み痕が刻まれ、体の中には病魔が巣食っている。
抉れた脇腹から血が零れ落ち、立ち上がろうとした足が崩れ落ちそうになる。
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ニフリート 「おい、じっとしてろ。動くと傷が塞がらねぇ。」 |
倒れかけた体を大きな体が支えた。
周囲に大量の飴玉を浮かべて、術式を展開してくれたらしい。
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コメット 「あり、がとう……先代。」 |
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ニフリート 「こういう時に限ってそう呼ぶんじゃねぇ。お義父様でいいんだよ。」 |
咲魔式先代当主──ニフリートによる治癒はみるみるうちに体を楽にしてくれた。
普段が真面目ではないだけで、やはり彼は正当な咲魔式の継承者であるということがわかる。
質も威力も自分とは桁違いだ。自分は中途半端に異能改変を施しているから当然ではあるのだが。
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コメット 「……うん。ありがとう。もう立てるよ。」 |
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ニフリート 「ホントかよ。まだ完治しちゃいねぇぞ。」 |
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コメット 「知ってる。でも、いい。あまりのんびりはしていられないし。」 |
端末を取り出して、傍らの義父に振って見せる。
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コメット 「……言わなきゃいけないことがあるんだ。いろんな人にね。」 |
もう一度力を込め、地面を踏みしめて立つ。
大丈夫、もう歩ける。
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???? 「タフだなあ。」 |
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コメット 「どうも。」 |
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???? 「……全然褒めてないんだけど?はあ、呆れちゃう。」 |
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コメット 「そうは言いつつ、あたしの戦いに協力してくれているじゃないか。」 |
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???? 「勘違いしないで。お父様とお母様のためなんだから。」 |
過去の自分──正しくは、魔女に拾われることなく全てを飴玉に変えて否定の世界へ落ちた自分の姿に苦笑して歩き出す。
いったいどうしたらこうなってしまうのやら、と思いつつ、気持ちがわかる部分もある。
怒りにせよ憎しみにせよ、彼女もまた自分だけの感情を手に入れることができた。
道は違えた。自分たちの目指すところは同じでも、手段が全く違う方向へ向かってしまった。
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コメット 「似てないね、あたし達。」 |
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???? 「……そうだね。」 |
自分と彼女は、もうきっと同じ存在ではないのだから。
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???? 「……あのさあ、なんか負けたくせに浮かれてない? 表情が気持ち悪いんだけど。」 |
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コメット 「ふふふ。そうだろう。あたしは浮かれているのさ。」 |
──彗星は、『よごれた雪だるま』に例えられる。
別に、それが名前の由来じゃない。自虐的な要素はあれど、自分の名前を考えたのはおおよそ希望的な理由と意味だ。
『輝く塵』。冷たい氷が集まり、輝き、やがて燃え尽きる。
殻を作り上げて目的を果たし、いつか消える。そう望まれて『御堂翠華』から『コメット・エーデルシュタイン』は生まれた。
冷たい場所で生まれた。あたしは、それだけはよく覚えている。
温かい場所から遠くて、でもそもそも温かい場所なんて知らなかったから「冷たい」なんて感想を抱くこともなくて。
きっと自分は、望まれないで生まれた。
だから、「望まれること」を求め続けたのだろう。
『コメット・エーデルシュタイン』を作った『御堂翠華』の問題をひとつひとつ片付けて、消えるだけ。
だけどあたしは、命が惜しくなってしまって。
──彗星は、氷微惑星が惑星の引力に引かれて軌道を変えるらしい。
太陽系の内側へと向かい、やがて尾をひいて彗星へと変わる。
太陽へと進んで、一番近くにふれて、……燃え尽きて、二度と帰ってこない。
だけどあたしは──
「お前を攫う、コメット・エーデルシュタイン。着地点は、これから見つける」
「信じろ」
「娘さんを俺にください」
「俺は、俺の全力を以て、コメット・エーデルシュタインを“手に入れる”」
「いずれ胸を張ってこれは“愛”だと言える日まで。俺は彼女を手放さない」
「約束する。幸せにする」
「お前に“生きたい”と思わせた責任を取ると、誓う」
「大好きだ、コメット。……俺の、唯一」
あたしは、捕まってしまった。
燃え尽きる前に。通り過ぎる前に。
──捕まってしまった。
あの声で、名前を呼ばれて。
あの目で、見つめられて。
あの手で、握られて。
捕まってしまったら、もうただの殻には戻れないと知っていたのに。
寂しくなって、切なくなって、苦しむことなんてわかっていたのに。
その手を、取ってしまった。
未来を生きる道を選んでしまった。
御堂翠華への、義両親への裏切りに等しい。
だけど、心はもう止まらなかった。
だって、一緒に考えようと言われてしまったから。
弱音を聞いてくれと言われてしまったから。
何一つ取りこぼさずに、幸せな未来を一緒に見つけようと提示されて。
頷かないわけがなかった。
「……いつか、本土の海も見に行きたいな。浄土ヶ浜なんて、絶景で有名だし」
「……君の思い描く"いつか"を、きっと未来で観に行こう。」
"いつか"は、叶わない?
"みんなで卒業"は、できない?
どちらかしか選べない。あの場所の日常は、どの道崩れ去ってしまうだろう。
それに対して、きっと君は悩んでしまうだろうけど。
「──さあ、立って。」
「あたしは、大丈夫。」
「だから、君も大丈夫だ。」
嘘ばかりだけど、強がりばかりで、つぎはぎだらけだけど。
その『嘘』も、『強がり』だって、本物にしていこうと思ったから。
泣きそうなほど重厚な弱虫を、きっと君は笑わないだろう。
『コメット・エーデルシュタイン』とういう役を充てられて、舞台に立った。
「俺が一緒に今まで過ごしてきたのはコメット・エーデルシュタインだ」と言われて、役を張り付けられたまま舞台から下ろされた。いや、『役』だけが、舞台から引き下ろされてしまった。
それでも、舞台の上に憧れて。自分を引き下ろした彼を見上げることしかできなくて。
だから、今度は自分の意志で舞台に上がった。
手を取って、確かに握って、今度はしっかり目を合わせて。
舞台の上において客席以外を見るのはご法度だ。だけど、そんなこと今は関係ない。
幕は下りている。これから上がっていく。カーテンコールを前にして、あたしは不敵に笑うのだ。
──あたしは、大丈夫だと。