>>Side for ENo.282/1:47
やがて、鯨はふわりと静止する。
ここまでだ。鯨には目指す場所があり……その背に乗せてきた、男にもまた。
……しかし男は茫洋として、降りる素振りを見せなかった。
まさか“眠った”かと、警戒する。傍らにはこのハザマを共に行く道連れが二人。
いつかのように、いつものように、微睡み進むこの男の相手をするとなれば。侵略どころの騒ぎではない。全て均して終わりだなんて冗談ではない。
「……」
――やらせてみるか、と。
鯨の体表、背中の部分からずるり、とヒトが這い出る。
「うわ…っ…と……外…かな」
”白波 白楽"の姿がそこにあった。
「あ、あの……もしもし?もしかして蓮くん?」
ナレハテ……?
血の色をしたどろどろのなにか。
……纏っている襤褸は、道着と袴だったのだろうか。
少女は、傍らの友人に似た何者かに声をかけた。
「……んや」
幸いに、と言うべきか。男の返答は明瞭。
「そうだけど、そうじゃない。……はじめまして、しらくちゃん。“俺”が世話になってるね」
少女の知る姿とは、色んなものが異なっていて。
事実として、別人ではあるのだろうが。
……それでも、へらりと笑い投げかける声は、同じものであった。
「じゃあ……そうなんですね」
"内部"で記憶は共有されても、実際に聞くとではまた感じ方が違った。
はじめまして、と言うのもなんだか変な気がする……と。
「“はじめまして”だよ」
その逡巡を見抜いたように、男ははっきりと口にした。
「……今更みたいに感じるね」
「それでもだ。……ここでの遣り取りを、あっちに持っていけないとしても」
赫い瞳は、静かに凪いでいた。
・・・
……その姿を、そう呼ぶのが正しいのかは、一先ずさておいて。
「蓮くんも、侵略側なんだよね?」
静かに、問う。
「……どうだろうな……」
返答は、曖昧なもので。
それは、侵略者というよりも……“ワタシ”も一度は打倒したナレハテに、よく似ていた。
「……つらくはないの?」
思わず、だった。ゆっくりと目を合わせる。
「辛いなぁ」
その目に、仕草に、何を思ったか。少し目を丸くして、それを細めて、苦笑する男。
「辛いけど。……やめようとは思えないんだよ」
……もうあんまり覚えていないのだけれど、と。
「どうしても曲げられなかったのか。他の全部の方が辛かったのかも」
「……ただ、“この道を行きたいと”思ったことを覚えている」
「擦り切れて、草臥れて、こんな成れの果ての脚が……それでも、進むんだ」
どうしようもない、と、自重の笑みに。
「……"やりがいと疲れはセットです"」
ぽつりと口から零れたのは、“彼”の言葉。
「…………アイツはホントに、俺を殴るのが得意だな」
言葉とは裏腹に、痛快な表情。
「……だろうなぁ……得意そうだもん」
「…………そうだな。……やりがい、っていうのか、なんなのか」
「きっとあったはず、途中の辛さだとか、もしかすると達成感だとかも。……俺は、色々と忘れてしまった。もうどれだけこうしているのかも分からない」
「もうずっと、長い、長い夢を見てるみたいで」
「……何処まで行っても、どれだけ経っても、これだけは確かにずっと在る。“コイツ”が、夢と現の標だった」
白い地面に走る、薄い古傷を撫ぜる。
自我が曖昧なまま彷徨う中で。幾度これが障害となっただろう。
幾度切り刻み、幾度吹き飛ばされ。……どれ程の時を、あの世界で過ごしたろう。
「……蓮くんは、あっちの“自分”と、自分を切り離して話すけど」
「この鯨は私自身……そのものだと思うんだ」
「信じたくないよ……私自身が侵略者だなんて……」
「侵略者なんか来ても自分がみんなを守って戦うんだって」
今まで行って来た"良い事"が自分に突き刺さって、抜けなくなって。
「……私もきっと貴方みたいになるかもしれないけど……」
男と同じように、背中の傷を撫で。
「最期まで、出来る限り私であろうと思います」
「……もしかしたら、貴方にとっての“ワタシ”ように。私が"標"になるかもしれない」
言葉が途切れ、千切れ、震えようと。……それでも、持ち直し。
「……みんなが戦える決意をできる、みんなに嫌われる理不尽な怪物になってやろうって」
それでも笑顔で、白い巨体の上で両手を広げ、髪をなびかせ、くるり、くるりと回る。
「…………」
悲痛な、けれど毅然とした言葉を。静かに聞いていた。
「それじゃあ……」
「……あっちの君は、“俺”や、君の友達に任せて。……俺は俺の言葉を贈ろう」
やがて開いた口から出るのは、そんなもの。
「―――“侵略の結果”は、“君の終わり”じゃない」
……他の誰でもない。協奏の世界で年を重ねた自分でもない。
明確な目的を以て否定の世界を歩み続ける、ナレハテは。故にこそそう告げる。
慰めではない。激励とも少し違う。何処までも残酷で、何処までも救いはなく。
「結果がどうあれ。“君の時間”はその先も続いていく」
けれど、きっと、何らかの“寛容”だった。
「それがコイツと重なるのか。そうじゃないのかは君次第だけどね」
ゆらりと立ち上がり、歩いていく。すれ違いざま、ぽんと肩に手をおいて。
「……"私の時間"…」その時はただ、ただその背中を見送るだけだった。
―――
――
―
「……なんだ、存外気に入ってるんじゃないか」
男は降り立った地面で体の具合を確かめながら、頭上の鯨に声を投げる。
「別個として残すなんてさ。……それともそこまで受け入れ難いか?」
「あのエディアンだのワールドスワップの意思だのというヤツが気にくわんというだけだ」
「……隙を見せれば、狩る」
その重圧は未だ変わらず。……それへの畏れも、慣れ親しみも通り越したと言うものだろう。
男は受けて、くつくつと喉を鳴らす。
「隙ねぇ。んな可愛げがあるのも今のうちだぜ、きっと」
なんせ“おまえ”なんだから、と。……口にしなかっただけのニュアンスが、その笑みに含まれている。
「……皆が戦える決意を、か。……眩しいね、ちっとばかし、目ェ逸したいくらいには」
けれど負い目は無いのだろう、声音は柔らかく。
「……ああ、眩しいな、だが同時に分かったことが1つだけある」
「ほォ」
「あの眩しさが世界を引き寄せるに至ったのだろう」
化けるかもしれない、と。
そう、“自分”にも思わせるだけのものが、あの遣り取りにはあった。
「……違いない。
……あんなん、そりゃ、欲しくもならァよ」
静かに、呟いて。
「………………お陰で思い出したんだ。……や、引っ張られたっつーかねぇ」
茫洋と、此処ではない何処かを見るように。
「何で歩いてきたのか。何で歩いていくのか」
「……料理がさァ、下手なんだ」
……ぽつりと男が零したのは、そんな唐突なものだった。
「料理」
訝しむ鸚鵡返しも意に介さず。勝手に可笑しくなったように、男は笑う。
「味覚がどうかしてんだっけ……レシピがありゃ人並みに出来るんだが。まぁ地力はヘッタクソでさ」
「味覚」
「割と何でも美味いって言うから、インスタント一つで、目ェきらきらさせてよ」
「でも、お茶を淹れるの上手いんだ。最初の宿主サマが良い奴だったんだと。……仕草が、綺麗で……」
小さく、息をつく。
「……微睡む間思い返すのは、そんなことばかりだ」
「…………」
男の顔に、浮かんでいたのは。
「黒くて長い髪が綺麗で」
「ちっこい体抱きしめたら、焚き染めた香の甘い匂いがする」
「細くてやらかい指で、頭を撫でてくれる」
「アイツは眠れないからって、夜に置いていくのが忍びなくて。でも、心地よくって、いつの間にか」
「……起きた時悪いなって思いながら、それでも絶対に『おはよう』って言わせてくれるのが、幸せだった」
「声。……少し擽ったくて、ゆっくりで。ホントに鈴の音みたいなそれが、『蓮さま』、って」
「用も無いのに話しかけるんだ。名前、呼んでほしくて」
「それで、こっちも呼んでみる。……口に出すと、触りのいい響き」
「ちょっとのことで、幸せそうに笑ってさぁ。潤んだまん丸い鳶色の目を、細めるんだ」
「……それを見てると……どうしようもなく、たまらない気持ちになる」
彼方への憧憬にも、似ていた。
「未練か」
「ああ」
「……何とは言わんが」
思わず、溜息。
「下手だな、お前も」
男は答えず、困ったように笑う。
もう一つ溜息が零れた。
「それでも、行くか」
「ああ」
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「――その道は地獄だよ、ナレハテ」 |
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「――この地獄より永い時間を。アイツと生きたいと思ったんだよ」 |
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「……救いようがないな」 |
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「ああ」 |
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「元より暗礁を往こうだなんて。“俺”を仰ぎ見ることもせず」 |
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「俺は船乗りじゃない。祈る間があれば歩を進めるさ」 |
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「…………そうか」 |
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旧友 「では、然らばだ怨敵。……私の祈りは不要だな」 |
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怨敵 「然らば、旧友。遠い海洋。……俺は祈ろう、航海の無事を」 |
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海の魔物 「お前の果ても見つかるのだろうかな」 |
歩み、小さくなっていく背中。小さな鈴の音、僅かな名残を聞きながら。
白い鯨は、空を征く。
―――もはやその道が交わることは、ない。
Side 白波 白楽
腫れぼったい顔をようやく上げた私は袖で顔を拭うとその場を離れようと近場の建物に入り込んだ。
外から見た時は真っ暗闇だった建物の内部は不自然なほど明るかった。
周りにある木製のテーブルや椅子、カウンターに酒瓶が並んでいるの見るとお洒落な外国の酒場のようであった。
それに客もいる。影法師なのは相変わらずだが少なからず表情と断片的に言葉を聞き取ることができた。
異能を使うことができなくなった今、頼ることができるのはこの身体と経験だ。
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影法師 「……聞いたか?"また"」 |
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影法師 「……これで20隻目か」 |
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影法師 「薄気味悪いアイツ」 |
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影法師 「海の魔物」 |
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影法師 「……クソクジラめ」 |
耳を澄ませていると影法師たちは口を揃えて"何か"に対して恨みつらみをぶつけている。
クソクジラという単語が聞こえて来たため鯨による被害を受けたのだろうか、と予想した。
クジラに漁場を荒らされた……などというレベルでもないようで何十人と犠牲になっているようだ。
息の詰まる思いだった。
聞いていてずしりと身体が重い、ボコボコと沸き立つ泡がずっと喉に居座っているような感覚
得も言われぬ恐怖心がじわじわと身体を蝕んていく。
私は我慢できずに酒場から飛び出した。
相変わらず建物の外はのっぺりとした濃い霧が立ちこんでいる。
外に飛び出した私は落ち着こうと桟橋の先へと歩いて行った。