
それはどこか遠い異世界の話。
硝子に似た透き通る壁の外、濁った眼をした人々は時折噎せつつも 灰をかき集めている。天井には、色の無い屋根。色が無いからこそ見える、同じ服を纏う人々が 降り積もる灰を下に落としている。下に居る人間は成す術無く灰まみれになる。それでも、顔色一つ変えず 灰を集めている。
壁の内側では、人々が何処かに向かって歩いている。色の無い天井でありつつも灰で太陽が見えず、灰で太陽が見えずとも、理屈の分からない明かりが灯り 視界がふさがれる事など無く。人々は殆どが言葉を発することなく、それでいて理屈の分からず出所のしれない通達が響く ――
D-1区にて、『竜殺し』の目撃情報があった、注意されたし ―― それが聞こえているのかいないのか、人々は、それぞれの目的地に向かって、ただ、歩いていく。
外側の人間が内側の人間を気にする素振りは無い。
内側の人間が外側の人間を気にすることは無い、――ただ一人の例外を除いて。
橙色の髪と 服に大きく刺繍された『C-8500185』の文字がひどく目立つ、少年だけが。立ち止まって、外の人々の様子を眺めている。
「人参、――おい人参」
橙の少年に向けて、声を投げかける少年がひとり。こちらは黒い髪をしていて、服にも似たような刺繍がある。こちらは『C-8500183』と縫い付けられている。
「聞こえているんだろ、人参……!」
おおよそ人の名前とは判断し難い単語を投げつけながら、黒い少年は橙の少年に歩み寄る。それも、視界に入るように斜め前から。
それでも一切反応しない『橙』に対し、『黒』はゆっくりと胸倉をつかんだ。
『橙』はそれに対して、特に抵抗する様子もない。
「聞こえてる癖に、僕を無視しやがって」
「『黒』。何度言えば気が済むんだ? オレはそんな名前でもない。正式な『仮名』も、人参じゃない」
そう言って、『橙』は己の服の刺繍を指した。今の自分を指し示す言葉はこれだと言うように。それは名前でなく記号でしかない。
「ケッ。僕にもお前にも『名前』なんて有りゃしない。カリの名前に正式も何もない。お前は『橙』なんて名前でもないし、僕だって『黒』なんて名前じゃない。だからこの僕がお前に名前をつけてやった。そっちこそ何度言えば気が済む?」
「人参なんて馬鹿な名前あるか。それに、『名前』は神から賜るものだ。オマエに勝手につけられたところで、何の意味がある?」
ここでようやく『橙』が、『黒』の手を振りほどく。抵抗の意志を感じれば、『黒』はすんなりと手を離した。
このやり取りにも、周囲の人間は反応しない。
やがて歩き出す『橙』。その後ろをついていくように『黒』も歩いていく。
「今日も、『灰掻き』を眺めていたのか。憐れんでるつもりか?」
「どうして、憐れむ必要がある? 彼らはこの国にとって大切な役割を賜っている。彼らがいるからこの場所は灰に埋もれずに済む。硝子の材料を集めるのも彼らの役割と聞くしな」
「だったら、どんな意図で 意味もない時間を使っていた?」
「意味はあるだろう? オレたちはまだ役割を賜る前の立場だ。役割は生きているうちに一つしか与えられない。他の役割を詳しく知ることは出来ない。勿論、『内側』から見ているだけでは その事実が変わることは無いけど……知ることは出来ないっていうのを忘れずにいられる」
『橙』の答えを聞いて、『黒』は一度黙り込む。
「……
だからお前は、この中ではマシな方なんだ」
「何か言ったか?」
「うるせえ。……人参、歩くの 無駄に速いぞ」
「別にオレに合わせる必要ないだろ、勝手に歩けばいい」
ついてくるな、とは言わない。目的地が同じであると知っているから。
「お前に言いたい事がある」
「オレにはオマエと話すことなんて無い。オレは一刻も早く、『講堂』に行かなくてはならない」
「早く行こうがそうでも無かろうが、アレなら 幾らでも聴けるだろうがよ。ゴミみたいな義務 寄越し やがって。必ず一人は、体調を崩す人間が 出てる」
背丈は『黒』の方が僅かに高いが、体力は『橙』の方が優れているのか。『黒』は、やや息を弾ませている。
「『黒』のように精進が足りなくて信仰が足りないからだ」
「何が信仰だ」
『黒』が吐き捨てたあたりで、周囲がざわつき始める。『橙』も足を止めた。
「この国は気狂い共の巣窟だ、国に正気な人間がいないからこうなったのか、正気だった人間が腐ってこうなったのかは知らねぇけど……」
周囲は静まり返っている。『黒』の弁舌と、ひとつの軽い足音だけが響く。
「全部、あの色無し大蜥蜴が原因でああなったんじゃないのか? ええ!?」
「オマエ、それ以上は……」
『橙』が忠告するも、間に合わず。『黒』の背後から、
「
『黒』且つ『C-8500183』を、制裁する」
まだ幼さの残る声が投げかけられた。間もなく、『黒』に向けて青い光が走る。
「痛ッ、……ぁ、テメェ、……」
『黒』は目だけを動かし、声の主を見る。白い髪と青い衣の少女。手には紙束。年頃は『橙』や『黒』と同じ程度。「神子だ」「ネージュ様だ」そんな声が広がり、周囲の人々は一斉に跪く。
『黒』は少女に向けて拳を振り上げるが、すかさず『橙』が取り押さえた。
「
『橙』、くそ、止めるんじゃねぇ……!」
「
『黒』、それ以上はやめろ……監獄行きになってもいいのか。そうなれば、『英雄』への道は閉ざされる」
一見唐突な『英雄』という単語だったが、どうやらそれは『黒』にとって痛い一言だったらしい。『黒』の拳から力が抜ける。
「
……クソが、『英雄』になるのはお前でもアイツでもなく、僕だ」
その様子を見て、少女……ネージュは、紙を1枚めくった。同時に青い閃光が消える。
「『橙』、良くぞこの歩く不敬罪を止めてくれましたね。本来、『名無し』の分際で調和竜を侮辱した『黒』は極刑を与えなくてはなりませんが、『橙』の行動に免じて 先の制裁で良しとします。……二度と、神や 私たち神子に歯向かう真似はしないように」
そう言ってひとつ笑顔を浮かべた後、ネージュは歩いていく。
「……この時間に『神子』が出歩いているということは、今日は、ネージュが『言葉』をオレ達に届けるのか」
「『白』め、僕らと同じ年 同じ区画生まれの癖に、『神子』になった途端に めちゃくちゃ偉そうな態度取るようになりやがって」
「『偉そう』じゃない、『偉い』んだ。『神子』とはそういう存在だ。それも、今までの中で最も若くして『神子』になった。名誉あることだ」
「知ってんだよ、くそ人参が。……
だから馬鹿馬鹿しいって言ってんだ」
そう『黒』が吐き捨てた頃には、もう、『橙』は目的地に向けて歩き出していた。