
青いジャケットの少年を前にして、赤ジャケットの少年―――宮田一穂(みやた かずほ)は、何も言わずにただ待った。
あのカプセルの中に詰まっていたガスを吸わされて、なおもその持ち主を追いかけるなんてことができるのは、自分だけのはずだった……なにかを忘れるという、生き物として正常なことができない、自分だけなのだ。
目の前の彼は、ここで偶然に自分と瓜二つの顔をした人間を見つけて―――これだって不思議ではあるのだが今はどうでもいい―――驚いている。それはまあまあ尤もらしい結論だ。
しかし、
「きみ……あ、いえ、その……えっと、病院に行きませんか? その足、あの犬に……やられた、んですよね」
青ジャケットの少年が、善意からの提案をした……それを受け取った一穂の脳はすぐに危機感を増幅させる。この少年はやはりあの『骨抜き犬』のことを―――知られてはならなかったもののことを忘れてはいなかったのだ。
どうしたものか。この場で排除してしまうという手はあったが、それはいくらなんでも短慮すぎる。
それに、目の前の彼がずいぶんと殺傷力の高い『異常性』を発揮して『骨抜き犬』をぐちゃみその肉塊に変えてみせたのを、一穂はわかっていたのだ。おかげで死体をわずか数秒のうちにゴミ袋に詰め込んで、このあたりまで捨てにくるというのを、骨を抜き取られた右脚を引きずりながらやるはめになった。
いずれにせよ、とりあえずは、返事である。
「お気遣いいただきありがとうございます。少し休んだら行きますので、お構いなく」
「そんな、無茶ですよ! あの犬のことだって―――」
青ジャケットは声を張って、不意に黙った。
「―――それに、変なガスが出て、時間が巻き戻ったみたいになっちゃうし……
ここ数日物騒だっていうの、本当なんですね。町のあちこちで突然人が消えたり、戻ってきたと思えば……死んでるか、生きてても身体がどうかなってたり気がふれてしまってたり、って……」
一穂の脳に雷が走った―――人が、消える? 死ぬ? 狂う?
「あの犬だけではないのですか?」
完璧にされたはずの脳にゆらぎが生じて、一穂にそう言わしめた。
「そ、そうなんですよ……! 昨日のニュースでだってやってたでしょ!? カスミ湖で男女が行方不明だとか、変な空飛ぶ生き物が目撃されたとかって……」
昨日。
一穂は脳に、昨日を問うた……が、何も返ってはこない。
心が、虚無を視ている。一様の黒、無音―――脳活動が生み出すノイズが、強引に乱雑さをもたらして、テレビの砂嵐のようにする。
ありえないことだった。
例えば三百六十五日前の今くらいに食べた昼食は白飯とレバニラ炒めととろみのついた中華風野菜スープだった、とわかったとたんにスープの色つやだとかレバニラのもったりと口内を支配するような食感だとかさえも感じ直して―――実際に五感にフィードバックしてしまうのが、一穂の脳なのだ。
それを、たった昨日のことを思い出せないだなんて、『異常』なのだ……
「だから……病院と、それと警察ですよ。助けを求めましょう? ぼくらだけじゃ、どうにも……」
と言う青ジャケットはすでにまわりにあったゴミを寄せ集め、一穂に肩を貸す準備さえ始めていた。
「あ、すみません……ぼくはクリストファ・マルムクヴィストって言います。K.M(ケー・エム)でいいです。長いから……」
一穂は、青ジャケット―――K.Mに何も言わず体を預け、立ち上がった。
そして、ふたたび己が脳と触れ合った。
「かッ―――!?」
刹那、K.Mを発作が襲った。
喉を押さえた彼は、膝から崩れ落ちてたちまち大地に転がり、振戦とともにのたうち回った。
その腕からするりと抜けた一穂は、松葉杖を草の上に突き刺して転倒を回避する。
振り向かず歩き出すつもりでいた彼は、しかしかすかに、絞り出すような声を聞いた。
青ざめたK.M。その手はあらぬ方向へ構えられ、土埃を引き寄せている。
彼の口が、動いている。
『に』、『げ』、『ろ』……
言われるがまま、一穂は逃げた。
ままならぬ足で、ずっとずっと遠くまで。
一穂は、K.Mやらはとんだお人好しらしいと記憶した。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
カスミ区。
コヌマ区の真西に位置するこの地域には、イバラシティを代表する二つの湖の片割れ―――カスミ湖があった。
主に賑やかなのは湖の東側である。特にほとりにある総合公園は巨大な風車が目を引き、駅に近いこともあって毎日多くの市民が訪れる。夜になれば風車がイルミネーションに彩られ、湖の反対側からでもその輪郭を捉えられるほどだ。
そういう場所のはずだったが、今は曇り空の下でどこか寒々しい雰囲気を漂わせていた。
あれから数日。
一穂は二本の足で歩き、公園の貸しボート小屋を目指していた。
「あぁ、お客さん?」
途中、分厚いジャケットを着て清掃をしていた初老の女性が一穂に声をかけてくる。
「ボートでしたらね、お休みですよ。ってか湖にも近づかないほうがいいわね……ニュース見ました? 湖の上だけじゃなくて、端っこにいたってだけの人まで消えちゃった、って……それがちょうどあたしの息子と同じくらいの歳の人だったらしいんですよ、もう思わず電話しちゃったわ……」
「お気遣いありがとうございます。気をつけますね」
後はもう自分のことを吐き出していくだけだったろう女性を軽くあしらい、ついでに進路を変えるフリをする。
順路を外れて道なき道より、改めて一穂はカスミ湖に接近をする。途中、警察が張るようなテープらしいものも見かけた。
木々の間から見える水面は、暗く、穏やかに凪いでいた。