自分一人でさえきれそうな、この細い蜘蛛の糸が、
どうしてあれだけの人数の重みに堪えることが出来ましょう。
もし万一途中できれたと致しましたら、
折角ここまでのぼって来たこのかんじんな自分さえも元の地獄へ
逆落としに落ちてしまわなければなりません。
(中略)
そこでカンダタは大きな声を出して、
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にきいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
とわめきました。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、
急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立ててきれました。
ですからカンダタもたまりません。
あっと云う間まもなく風を切って、こまのようにくるくるまわりながら、
見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
ー蜘蛛の糸ー芥川龍之介
小学生の国語の授業で朗読した一説を思い出す。
オシャカサマの垂らした糸で自分だけ助かろうとして地獄へまた落とされた罪人カンダタの話。
初めて読んだときはあの話のオシャカサマもかなりヒデェと思ったが現実のオシャカサマはもっと残酷だ。
蜘蛛の糸で救われたと思ったら登ったその先もまたまた地獄。
結局残されたのは俺一人と罪人(アンジニティ)の群れ。
こんなのまるでカンダタだ。救いのなさではカンダタよりたちが悪い。
俺のやっと手に入れた平穏が嘘だなんてあんまりだろ。
行けども地獄、帰れども地獄。
いつになったら俺は救われるんだ?
・ ・ ・
ハザマで二時間が経った。クロスローズで通信をして
デケエ喋る石壁を禁賊抜刀でブッ壊して、もう一度クロスローズで通信をしたあと
荒野を歩いているうちにだんだん一人が心細いと感じた。
原因は分かっている。
俺が敵味方の判断にしていた「アンジニティはハザマでは化け物の姿」という前提が
通信によっておじゃんになったからだ。
モロバが言うことを信じれば、相手が人の形でも油断できないという。
皇嶽先輩みてェに見た目がイバラシティそのままの姿でもアンジニティの場合もある。
御手洗みてェにイバラシティの住人でもアンジニティに加担するやつもいる。
十神みてェに見た目が大して変わらないのにアンジニティだっつー奴もいる。
曾我部がアンジニティだった時はそこで考えるのを止めたくなった。
授業をサボりがちだった俺にとって保健室での出来事は俺の高校生活の大部分を占める。
そこでの出来事が全部嘘だったンだ。その先なんて考えたくねェだろ。
駄菓子をふるまって、悪態を軽口で返しながら出来損ないを迎えてくれるような
優しい教師なんていなかった。
…そりゃそーだ全部侵略者の嘘なンだからな。
世の中から否定されて、俺自身さえ否定してきた俺を受け入れてくれる大人なんていなかった。
…当たり前だ全部侵略者の演技だったからな。
地獄から救ってくれたじーちゃんやばーちゃんも嘘かもしれない。連絡が取れないから生死も分からない。
学校でつるんでた奴らも嘘だった。先輩も、クラスメートも、後輩も。全部全部侵略者の計画の一つだ。
…俺の人生の幸せだった時間は全部アンジニティに作られた茶番劇なんだってよ。
こんな状態で誰かを信じろってのは無理だろ。嘘だらけだ。
でも信じてなきゃ今まで築いてきた平穏が消える。幸せが壊れる。
生きている限り「悪くない」俺自身をこの先ずっと否定しなきゃいけなくなる。
毎日が地獄だったあの時みたいに。
毎日がボロボロで生きるのが苦痛だったあの時みたいに。
おふくろが死んで全部が崩れ去ったあの時みたいに。
一人ぼっちだ。
嫌だ嫌だ嫌だ
生まれてこなきゃ良かったなんて、良いことなんて一つもないなんて思い続けて生きたくない。
傷つけて傷ついて、嫌われるだけが自分の存在を証明する手段になって。
周りに怯えながら息も休まらない暗闇を這い回るなんて…あんなのもう二度とごめんだ。
親父やいじめッ子のあいつがアンジニティだったらどれだけ救われただろう。
イバラシティの裏切り者が言い訳できないくらいの悪人だったらどんなにいいだろう。
なんで俺と親しい奴ばっかりアンジニティなんだ?
なんでクソみたいな記憶だけ真実ヅラして俺の頭ン中でのさばってンだ?
なんでハザマでの記憶がイバラシティに持ち込めないンだよ。
あいつに、あいつに、あいつに、あいつがッッッ!!
ハザマの記憶を持たない俺にお前が親しくしてる相手がみんながお前の敵だと教えてやりたい。
全部ぶちまけて、そんな仲良しごっこは今すぐやめろと引き剥がして怒鳴りつけたい。
そいつらの目的は侵略で、本当は全部が全部紛いモンだって目を覚ませって忠告をしたい。
もどかしいのにやり直したい場所のどこにも手が出せなくて吐き気がする。クソッ、気持ち悪い。
やり直せるところまで巻き戻してくれ。時間を巻き戻してくれッッ!!
崩れかけた建物にバットを滅茶苦茶に叩きつけた。何度も何度も何度も。
本当はこの砕けてく瓦礫がアンジニティだったら良かったのに。
ああ、いっそ俺の人生を滅茶苦茶にした奴らだったら良かったのに!
自分の叫び声に混ざって斎川の声が聞こえた気がした。お前もこんな気持ちだったのか?
本当に俺、馬鹿だわ。まんまとアンジニティに乗せられて、家に乗り込んでボコボコにして。
…でも結局お前は死んじまった。深淵見銀子を名乗るアンジニティに殺されちまった。
乱暴するんじゃなかった。もっと慎重に動いて、もっと話し合えばよかったんだ。
……話し合い?誰とだよ。あの時、誰と誰と誰に相談出来た?
イバラシティで誰が本当に信用出来る奴なんだ?っていうか本当に味方はいるのか?
本当はとっくに侵略されてンじゃねーのか?
息が上がる。頭ン中がかぁっとする。立ってるのがしんどくて近くの瓦礫に座った。
小坊ン時もよくこうやってうつむいて時間が流れるのを耐えてたっけ。
何も考えたくない。ただ凄く惨めだ。繰り返し何度も息を吐く。苦しい。呼吸が上手く出来ない。
息吸うってどうやンだ?
うずくまって沈黙と戦っていたら耳障りな音で少し現実に引き戻された。クロスローズの通信だ。
頭を上げて接続すると見慣れない奴が居た。相手は滝とか名乗った。
そいつも急にハザマに飛ばされたという。自称イバラシティ側のそいつが言うには陣営を見分ける方法があるらしい。
そもそもそいつを信用できるか否かって話だが、向こうに敵対の意思がなくこっちにも敵対する理由がまだない。
それに信用できるか否かって条件は向こうも同じだ。
何かを信じるとっかかりが欲しかった俺は向こうの情報を信じた。
通信を切ると再び静寂が訪れた。
クロスローズの世界はスゲーリアルでバーチャル空間だってのを忘れそうになる。
どこまでも広がる荒野。赤い空。建物の残骸。訳の分からないバケモノ。現実の俺はたった一人だ。
……人間は、俺一人。
意味の分からなさに眩暈がする。暴れたせいか気を張りすぎたせいか異様に体がだるい。
あたりを見渡していると混線したのか砂嵐みたいな音が流れた。段々と綺麗な音が混じって
音楽がかかった。クラシックだろうか。今の孤独に寄り添ってくれるように、寂しいけど暖かい。
死んだおふくろが小さい頃に歌ってくれた子守歌のようで、自然と涙があふれた。
縋りたい。会いたい。嘘でもいいから。つまはじきになった俺を受け入れてほしい。目頭が熱い。
寂しい。さみしい。さみしい。あいたい。ここにいたくない。だんだん心が空しくなって、
いじめられたり親父に殴られたときみたいにしばらく声を殺して泣いていたら……ぼんやりと
ゲーセンで再会した懐かしい顔が頭に思い浮かんだ。
小学校に入学して出会った俺と同じ大人しい生徒。
…そうだ。伊藤君。伊藤君だ。小学校の同じクラスの伊藤君。
入学したての頃、人見知りで誰にも話しかけられずクラスで孤立していた俺と雰囲気が似ていて
なんとなく話すようになって、仲良くなった友達。
おふくろが生きてた時は家にもよく遊びに来てた。
たったひとりの一番の友達。伊藤君。家で駄菓子を食べたりお喋りしたりゲームしたりもした。
楽しかったあの思い出までもが嘘だったら今ここで俺は自殺するかもしれない。
早く確かめなくてはいけない。はやる気持ちを押さえながらクロスローズを開いてメッセージを飛ばす。
「伊藤君はアンジニティじゃない、…よな?」
結果から言えば俺達は合流できた。
それはつまりこの手段が信用が出来るってことだ。
伊藤君は怯えていて、でも合流場所に来るまでの道中一人でなんとかなってたみたいだ。
伊藤君の無事と思い出が嘘じゃないことに安堵して俺は休憩時間にもう一度クロスローズに接続した。
岬も本当だった。通信で元気な顔を見せてくれている。良かった、嬉しい。
嬉しくて思わず大口を叩いたけど逆に心配されちまった。
岬だってこんな地獄の底みたいな場所に飛ばされて怖いだろうに。
目の前でいつもと変わらないのんびりとした口調で笑っている。強いな。
これから伊藤君と仲間を探すのだ。俺も冷静さを取り戻さないといけない。
本当はすぐにでも向こうに行きたいけど、距離が離れてて合流するのは無理そうだ。
無事を祈ってこまめに連絡するしか今の俺に出来る事はない。
だから出来るだけ岬に連絡するときは安心させよう。支えられるばかりじゃ駄目だ。
悔しいけど今は自分に出来ることをやろう。約束、ちゃんと守るからな。
師匠も本当だった。やっぱり心配されちまったけどお互いさまか。
生きて帰ってこそのヒーローなんて言われて、ちょっと前までの死にたい気持ちを見透かされたみたいで
ドキッとしたけど師匠の経験者らしい言葉で勇気がわいた。
自殺するかもなんて言ってる場合じゃねェわ。イバラシティも大切な人も護れなくなっちまう。
間違いばっかり犯してきたけど俺だってヒーローの端くれだ。
自分を守って誰かも守らなきゃ、ヒーローなんて名乗れねェ。もっと仲間を増やそう。
休憩が終わったら伊藤君と作戦会議だ。
ようやく力が沸いてきた。
蜘蛛の糸なんかいらねェ。必ず俺達は俺達の力でこの地獄から這い上がって見せる。
イバラシティも俺自身もみんなまとめて俺自身で救ってやる。
イバラシティの底力。舐めンなよアンジニティ。
テメェら亡者が極楽目指して群がるってンなら俺が最後の一匹まで蹴散らしてやる。
気合を入れて何処かにいやがるアンジニティに吠える。
「俺達の幸せは俺達だけのモンだッッ!ハイエナ野郎はすッ込んでろッッ!!」
急に大声出したンで側にいた伊藤君がビビってしまった。脅かしてごめん伊藤君。
…伊藤君も試しに叫んだり、する?