それで、だ。
彼は言い知れようのない気分に襲われていた。
形容するとすれば罪悪感が正しいだろう。
知り合いの女の子を怖がらせてしまった。
……が、おそらく正しい。
その正しさは間違いだらけで、知り合いでも無ければ女の子でも無く
白水ビルの一室で盗難による被害に怖がっているのは紛れもない自分だった。
部屋の中から瓶類がごそっと消えていれば心配にもなる。
そして、盗難の犯人も自分だった。
「なんだかなぁ。
あれだけ怖い思いをしてるのにさ、馬鹿みたいじゃないか」
手の中の赤い花を封じ込めたハーバリウムを見やる。
彼の周りには彼女の(自分のことだが、あまりにもわかりにくいので彼女と言うことにした)部屋から持ち出した瓶類が転がっている。
試しもしないうちから「ハーバリウムの中のオイルを変質させることが出来る」と確信している。
これはあれだ。多分、異能の強化。
彼の異能が強化されたという感触はない。ただ——異様に攻撃的になっていた。
ひとつ、素の世界から『瓶入りのもの』を呼び出せること。
ふたつ、『瓶の中のオイルを、何か別のものに変化させる』ことができること。
どちらも、それだけでは攻撃性がない。順を追って話そう。
彼の異能は自分を燃やす事が出来るという、嫌がらせのような制限付きの発火能力だ。
異能を扱う授業のために、洗髪で抜けた髪を集めていた。
髪が長いのも昔からで「集めやすいから」以上の理由がない。
(それでも、これ以上長いと頭が重たくなりそうだった)
転機は、この花だ。
おおよそ二年前新たに発現した異能——を、含む病気。
『花吐き病』
恋愛感情が素で症状が出るという、「やめてくれ」としかいいようのない病気だ。
しかも有効な標準医療が確立されていない奇病で難病だった。
花を、吐いた。
……最初に発病したときのことは正直よく覚えていない。
高校の入試に合格したのを、一年間一緒に頑張ってきた家庭教師の先生に報告に行って
(大学2年生の女の人だった。順調に進級していれば、そろそろ卒業している頃だろう)
ひどく、咳き込んで倒れた。胸が痛かった。
意識をなくして、次に目が覚めたのは病院だった。
聞いた話によると彼女が親と救急車を呼んでくれたのだという。
親と一緒に医師の話を聞いた。
恋愛感情が作用する病気だということ。
異能を阻害する作用のある物に近づいた場合、命に関わるの危険性があること。
病院か、どこか人里離れたところでの生活を勧められた。
説明を聞いて、ぼんやりと、彼女のことが好きだったのかと、そう思った。
——死にたいと、思った。
親の前で初恋大発表 with お医者さんの保証。
やめてくれ。笑い事じゃないんだ。生き死にがかかっていたから誰も笑っていなかったけれど、それとは別問題で。
それでもやっぱり、彼女にお礼が言いたくて、
「救急車を呼んでくれて、ありがとうございます」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかったけれど
多分、彼女はなにか言ってくれるだろうと、
会話とはそういうものだと、あの日そうしたように
彼女に電話して
「おかけになった電話番号は、お客様のご希望によりお繋ぎできません」
花を、吐いた。
病院の白いシーツの上に、いくつもいくつも。
医師が説明を続ける。
「この病気は、両思いになったと貴方が想ったら、それで終了です。
報告されている症例では、例外なくお亡くなりになっています。
その場合、お相手にはシティの法令上、異能を用いた殺人罪が適用されてしまいます。
とくにこの事実を知ってからの場合、殺人教唆の罪が加わるので
ほとんど執行猶予をつけることも難しく……」
咳き込んで花を吐くだけの病気が、面相を変える。
これは好きな人に前科をなすりつける病気だ。
「心理士や、弁護人といった専門家の方と、
くれぐれも本人では無く、ご家族の方がご相談されるのが一番かと思います」
中学生にだってなんとなくわかった。
「心理士や、弁護人といった専門家の方」だって、下手に好きになられて前科を押しつけられたら困るのだ。
そして、多分その法令上の変な扱いも、花吐き病の患者の為に経歴を汚してくれる覚悟のある奇特な人間がいなければ、いつまでたっても何も変わらない。
公民の授業を思い出す。
「少数の人に優しくする社会福祉は、そうであれと多数の人が願うから実現されるものです」
キラキラした言葉の裏側は、人に願われない少数者は社会から優しくされないということだ。
——話を元に戻して、そういうわけで花を吐くようになった。
この花は燃える。自分だから。
抜けた髪のように、血の出た傷口を拭ったティッシュみたいに、涙をふいたハンカチみたいに。
燃える花がある。
しかも、瓶入りで、油と封入されている。
油は本来、そうそう燃えないものだけれど、燃やせるように出来る。
テレビで見た遠い国や、古い記録にある火炎瓶。
……ボールに比べて、あまりにも投げやすかった。
テレビで見た遠い国や、古い記録にあるように
これで人とだって戦える。
空の瓶だって、それなりに重いし。
「滝ー!これ、もってっていいか?」
越馬が声をかけてきた。
彼も、あまり攻撃的な異能ではない。
鳥籠の中の小人が身体能力を強化してくれて、それなりに戦えたといっていたけれど、つまりそれは「異能抜き」ってことだ。
いいよ。と許可を出せば、越馬が空の瓶に砂を詰める。
割と物騒な武器が数分でできあがる。
「……僕が言うのもどうかと思うけど、やる気があるんだね」
「え、ちょ。火炎瓶と比べられたくねーし」
全くその通りなので、ため息しか出なかった。
***
白水ビルで心細い思いをしている『自分』が
越馬に盗難の詳細を告げたら、どうなるだろうか。
いや、自分だって越馬のことが好きなんだけれど。
知り合いがアンジニティの住人で、裏切った裏切られたの話が聞こえる場所で
あちらの自分に裏切られないように祈り続けるのは、ひどく牧歌的な話なのだろう。
世界の侵略という題目は大海のように大きくて、そこで嵐に揺れるひとのこころはひどく遠く見えた。
……目の前の水たまりのほうが大事だった。
多分僕は、ひどい奴なのだ。