男は愛を知っていた。
愛とは、清らかで甘く、それでいて、ときに鋭く胸を刺す、そんな感情であることを知っていた。だがその男が、己の家族や恋人、あるいは友人らへと向ける愛は、人間が人間を愛しく思う、柔らかな形をしてはいなかった。たとえば、猫が綿毛にじゃれついたり、幼子が覚えたばかりの文字を記す先を求めたり、数学者がいまだ解けぬ数式に胸を躍らせたり。そういった類の愛だった。

わかる、覚えた、とはいっても所詮は片言。
聞き取るには一言ずつ区切ってもらわねばならず、まだまだ応用も出来ない状態。
自信をもって胸をはって、わかった、といえるにはまだまだ程遠く、だから、一応は、覚えた、と頷くにもややぎこちない。

柔和な笑みに、先ほど垣間見えた恐怖を抱かせるものは何処にもなく。
だからこそ、自ら急所に誘うその手が、より、怖い。
慌ててその手を引っ込め、そんなつもりじゃない、と激しく首を横に振り。

どうして、と同じような問いを、再度。
自分が言葉を覚えなければよかった、と。そう告げる相手の言葉までは、まだ聞き取る事は出来ず。
疑問符を頭の上に浮かせるような、…そしてやはり不安げな、落ち着きのない表情を。

わがままだね、と言われ、
ムッとした顔をする。

そこまでいって、何かに気がついたのだろうか、
ビブリオバベルはあなたの瞳を覗きこんだ。

「誰がそんなに食べるのか」と聞かれると少しばかり考えて

「とはいえ、夕食の時間に降りてきていただけるのであれば一番なんですけどね？」
そういって肩を軽くすくめる。


その間も、大きな鉄鍋はジャンジャンと激しい音を立てながらライスを宙に舞わせている。
ベーコンと卵の焼け付く香ばしい匂いが食堂に漂い始めた。

小さく、隣の人に聞えるかどうか、といったそんな声。
震える手をぎゅ、と握り締めれば獲物を構え。
不安げな表情を無理やり内へと押し込めれば、顔を上げた。