じくじくと右半身から広がる疼くような痛みに、意識が引きずりあげられる。



（……どのくらい時間が経った？）


この部屋に陽光は差し込まない。時計は過ぎていく時間ばかりを見せつけられるようで、置いていなかった。故に、正確な時間を知る術はそもそもない。

背を持たれかけさせている壁にも、足を投げ出している床にも、体温はしみこんでいない。案外短い時間なのかもしれなかったが、もとより死人じみて体温の低い身体だ。当てにはならないだろう。

「…………」

鈍痛をやりすごそうと息を吐き出す。力が抜けて下りがちの瞼の下から、薄らと香薬臭い煙のたゆたう天井から視線を逸らす。壁に側頭部を押しつけて、疼痛を追い払おうと試みる。指の間にひっかかった煙草の長い灰が、板張りの床に落ちる。

数十分か。

灰の長さでそう計りながら、半分以上じりじりと燃えつきた煙草を、そのまま床でもみ消した。

見つかれば、煩く言われるだろうか。

小さく黒い焦げ目のついた床に脳裏に印象的な青い目がちらつく。

「ヴ、…っ」

喉奥からせリ上がる鉄錆味を飲み下す。
声を殺すかわりのように、口の片端が引き攣るように釣りあがった。

よくもまあ、無邪気に他人の有様に口をはさめるものだと思う。

想像上で、巻き毛の子どもが、口元を押える自分に向かって、
ちゃんと休んでくださいだのと顔を顰める。

休んだところで、進行は止まっちゃくれない。と、そう頭の中で言いかえしたところで、幻の会話をさえぎるように コンコン。と、ノックの音が響いた。





「……グレイマンさん？」

顔を上げて閉じたままのドアを眺めやるも、声を出すのが億劫だった。
そうして応えずにいたせいか、見えない向こうから訝るようなカミユの声が続く。

「…………いないんですか？」

いる。と、声を返そうかと唇の上下を離す。が、途端食道を這い上がる蛇のような違和感に、壁に背をつけたまま左手を横に払った。

積み上げた資料の山が崩れて、どさどさと音を立てる。

「……。入ります」

許可が返らなかったことへの躊躇なのか僅かに間があいたが、扉が音をたてて押し開かれるのは声と同時だった。廊下の光が部屋の暗い灯りと混じって、ぼやけていた輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。

「な」

ほぼ対面の壁に持たれる俺を見つけるのは容易だっただろう。
大きな目が丸くなり、整った眉がぎゅっと寄せられるのが見えた。

「また床で作業してたんですか」

ギルドの資金繰りに絡んで、仕事がひとつ増えたせいで
部屋の中は以前よりも物が増えた。

机と寝台は、ほぼカダイエについての資料に埋もれ済みの上、片付けるよりも持ち込まれる数の方が圧倒的に多く、それゆえ椅子も棚のひとつとして有効に活用されている。

「身体が冷えるからよくないっていったのに」

カミユは、通路だけ確保してあるような部屋に踏み込んで、箱ををどかしながら一直線に歩みくる。こちらが動かずにいたせいで、下から見上げるような格好になった。

「とにかく、せめて寝台にあがってください。
　きちんと身体を休めなきゃだめですよ」

小言とともに「ほら」と、手が差し出された。
真っ直ぐな目と視線がかちあう。

その背にあの天使もいるのだろうが、今は姿が見えなかった。
動けないなら掴まってください、とばかりに頑として戻されない手を見やる。

「なにしてるんです？」

視線を向けるだけで動かずにいれば、急かすような促しがかかった。

他人の手が杖になるなどとは信じられないのだと言えば、
この子どもは、いったいなんと答えるだろう。

「……作業疲れ」

結局、物思いは口にせぬままに、腕を掌に乗せる。

「そんなになっちゃうなら、せめて、絨毯でもひいたらどうですか」
「……煙草で焦がすか最悪焼け死ぬな」
「ぎりぎりまで吸わなきゃいいじゃないですか」
「消し忘れる」

さっきも忘れた、とまでは言わずに上から重さをかけると、僅かに沈むもしっかりとした抵抗があった。
そのまま、身体がぐいと引きずり上げられる。

「なんの作業をしてたんです？」
「……売り物の資料まとめ」
「売り物？」

尋ねる言葉に答えてから、頭の回転が落ちていることに気がついた。

『売り物』を流しているのは、表で取り扱うには少々難がある類の品を流すオークションだ。
"昔の知り合い"との繋がりの濃い仕事については、全貌をはっきりカミユに話していない。

「……ああ」
「リレッタさんと何かやってるやつ……ですか？」

曖昧な相槌を挟みながら、確認の声にどういうべきかを考える途中で、だるさに襲われた。煙草を咥えていたときにやっていたのは、渡していない資料と品の整理だったはずだ。
抜けている仕事を思い出して、ぐったりとした疲れが舞い戻ってくる。

「……とっ……！　大丈夫ですか？」

床板の段差に蹴躓いた体が、カミユの背に支えられる。
心配と驚きと注視が入り混じった質問からは、聊かずれた答えを返す。

「……渡してない資料と品があった」
「え、どうするんですか。それ」
「どうするかね……」

どうするもなにも必要な物を持っていって、渡せばいいだけの話だ。
進行自体は、リレッタが思っていたよりも上手くやってくれている。
ただ、単純なそれだけのことに、やる気を起こす作業が難だった。

「……届けましょうか？」

リレッタが都合よく取りにこないか、と巡らしていた思考の歯車が、すぐ手前からの声に杭を挟まれる。

「必要な物を教えてもらえれば、
　渡すぐらいはできると思いますけど」
「…………」
「なにか難しいですか」

問いかけに、面倒の種を十は数えてから息を吐いた。


「……いいや。　なら、そこの床に雪崩れてる資料と、
　椅子の上に置いてある箱を持ってってくれるか」


数えた種を眺めながら、頼む相手の顔を浮かべる。

そうしてどれもこれもをひとりづつ打ち消して、
そのまま、地面に向けて種を投げ撒いた。






　　　　◆◇　◆◇◆　◇◆






寝台の上で鼻先に落ちてきた紙束を焦点を合わさずに眺める。
届け物を頼んだカミユは戻ってきていない。

或いは会場までたどりつけた頃合か。

後をついてきた人間が抱える悪徳を見たときに、
あの子どもの青い目は、どんな色を浮かべるのだろう。

「…………」

非合法の品も多く混じる取引を見たとして、
平穏な村で育った子どもがどう思うかを辿りかけて、
途中でそれをやめた。

済んだ話を繰っても仕方がない。

鈍る思考の中では幻滅して騒ぎ立てるなら、それまでのようにも思えた。
なによりも、あの手はもとより差し伸べ続けられるわけがないものだ。

火を消し忘れるように、それを忘れてしまうその前に、
壊れる様をみておくのも悪くはない。


そんな事を考えているうちにか、意識が暗がりに溶け落ちた。

声をかけられて立ち止まる。
放られた袋を受け取り、その重みから中身の大体の目安を付ける。

『いらんことで複雑化しても仕方ないだろ？』
そう返されると「やっぱり、あんたでよかったよ」と煙を吐く。

そしてグレイマンのふとした疑問が切り出した自分の感知していない【暴走】について耳を傾ける

『……その様子じゃあ、あんたの仕業じゃ無さそうだな？

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　正確には何時だったか覚えてないが――』

そう切り出されたグレイマンの情報に狭い椅子で器用に胡坐をかくと、
頬杖を付いてブツブツと何か呟きながら考察しながら聞いている……。

最後に、『契約』についての推測を提示されると頭をガシガシとかいて

「それなら、”好奇心は猫をも殺す”って言葉は覚えておいて損は無いよ」

そう言って、口角を僅かに吊り上げた。

人形の首根っこを掴みあげ、男の眼前に押し付けるように持ち上げ。

無言で巨大な中華包丁を握っている……。

苦手なタイプのようだ。

薄く血の付いた包丁を振り払う。

巨大な中華包丁をまるで棒切れの様に振り回した後、軽く構える。

翼の前脚でねこじゃらしを器用に摘まんで、ごろごろしている。

喧騒にはあまり、興味がないみたい。