始まりは、一冊の絵本だった。
ロクに体が動かなくなり、昔世話になっていた協会に転がり込んだ。
痩せぎすな体で無精髭も生えていたからあまり歓迎されてはいなかったが、縁というものは強い。一室を借りて余生を過ごすことになった。
その協会の中庭では、修道服を着た少女がいつも祈りを捧げていた。
「飽きねぇのか?」
「はい。これが私の役目ですから。」
「お前さん、何モンだ?」
「私ですか」
年齢にしては教会内で自由に歩き回り、恭しく接されている少女が気になった。
「私は、かみさまになるんですよ。」
「……あぁ?神様?」
「はい。」
「私は、みんなのかみさまになるんです。」
──異能、『変身願望』。
自信が望む存在に変貌する異能、らしい。
その範囲は人間だけに留まらず。異形、無機物など制限がない。
過程も理屈もすっとばして結果だけを叩き出す。
そんな異能を持って生まれた少女は、生まれた協会の信仰する『神様』になることが定められているらしい。
それに対して嫌悪感を抱かなかったと言えば嘘になるが、俺は部外者であったから過度な干渉はしなかった。
本人がそれでいいなら、俺が止める資格なんてなかったからだ。
「お前さん飽きねぇのか?」
「何がですか?」
「いつもその本読んでるじゃねえか。」
「飽きませんよ。この絵本、好きですから。」
「そういうもんかねえ。」
「ニフも読めばわかりますよ。」
少女はいつもひとつの絵本を読んでいた。
なんてことはない、魔法使いの話。
花が大好きな魔法使いが、宝石でできた花を作って貧しい人々を助けていく話。
少女は花が好きだった。中庭に咲く花を摘んでは宝石にならないかと俺に差し出してきた。
「無理に決まってんだろ。そういう異能じゃねぇんだよ。」
「咲魔式なんて書くのにお花は関係ないんですね。」
「んだなぁ。」
「じゃあ、またニフの魔法を見せてくださいよ。」
「老人を労ろうって気持ちはねぇのかお前は……」
くすくすと笑う少女は俺の部屋によく足を運ぶようになっていた。
祖父母がいないから寂しいんだと。それを聞いて自分が相当な老人であることを自覚した。
「咲魔式、無くしたくねぇなぁ。」
「無くなるの?」
「俺には子どもいねぇからな。」
「それは、寂しいね。」
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ニフリート 「(……やっぱり、いねえか。)」 |
ハザマに来てから数時間。"あちら"より大きくなった体に義娘を乗せて歩く。
右手のほとんどが飴玉に変わった義娘は、それでも平然と前を見続けている。
"あちら"での身体的変化はハザマには持ち越せない。つまり義娘の体の中には未だ魔女による薬が残ったままだ。
そしてそれは、36時間の間追加も削除もできない。
魔女がいないのだ。このハザマに、彼女は召喚されなかった。
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ニフリート 「(当然っちゃ当然か。あいつにはもう異能なんてないんだからな。)」 |
それに、戦えるかと言われたら不安な部類だ。あいつが残した異能は自分の体をこうして強化させる形で発動している。
『そうありたい』と思った慣れの果て。それが自分たち家族の共通点だ。
「――『可哀そう』だと? “それより先に俺の願いだ”と、その舌の根も乾かぬ内に、何を言っている」
「覚悟? 半端? どの口で言っている」
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ニフリート 「(ああ、全く耳が痛い。)」 |
魔女に願い、魔女に協力し、義娘の異能を改造しながらも寄り添い続けて。
義娘に情を与えて、逃げられなくしていた?
違う。
俺の願いは大事だ。そう願い続けたのだから。
じゃあ、コメットのことは道具としてしか見ていないか?半端な情を与えていた?
まさか。
俺とコメットの絆は確かにあった。俺たちは互いに親愛があったはずだ。
だけど。
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ニフリート 「(俺は、あの魔女だって大切なんだ。)」 |
願いを叶えなければ、契約は終わらない。
契約を終えられなければ、あいつはずっと"魔女"のままだ。
それは、あまりにも。
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ニフリート 「(じゃあ、半端じゃない生き方ってのは何なんだよ。)」 |
今でもわからない。あの問いに対する答えも、何故魔女が俺と契約したのかも。
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コメット 「お義父様、そっちの道は違うよ。」 |
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ニフリート 「あ?……マジだ。悪ぃ。」 |
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コメット 「頼むよ。はぐれたら合流するのも手間なんだから。」 |
背中の上で武器の調整をしながらコメットが語り掛けてくる。
その上には真っ黒な着物を着たアンジニティを浮かべて。
誰かと連絡を取りながら仲間たちと談笑する姿は、向こうとそこまで変わらないように見える。
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ニフリート 「(コメット。お前は怖くねえのかよ。)」 |
声には出さない。けれど、義娘の順応能力が自分には少し恐ろしかった。
かつて友人だった者が変貌し敵に回っている。
住み慣れた街が荒廃し、運営側のやけに明るい放送が響き渡る。
1時間ごとに"向こう"の記憶がフィードバックしてくる。
──体が少しずつ、飴細工のように変わっていく。
痛みを感じない。自由に動かせない。そんな右手を隠して会話に応じる。
クラスメイトだった者の嘲笑を笑い飛ばして敵として尊重する。
どうしてだ?
怖いとか、嫌だとか。そんなことを言ってくれれば少しは力になれるだろうに。
大きな体で包んで、代わりに立ちはだかる敵を蹴散らしてやるのに。
──その態度は、『本当』なのか?
──そもそも、お前の『本当』って何なんだ?
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コメット 「……どうしたのさお義父様。不機嫌そうな顔して。」 |
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ニフリート 「なんでもねぇよ。」 |