
きっかけは、餌としての立場を押し付けた者、アマネの一言。
『イバラシティではバレンタインだったみたいだね。
みんなは ど、どんな感じだったかな?』
あちらの世界で、一条瀬織の意識を通して知ったイベントだ。
菓子を渡し合い、愛を伝え、友情を確かめるもの、であるのだろう。
少なくても一条瀬織は、あの人形は、そのような認識をしている。
アマネの言葉を聞いて、浮かんだ花の色に頭を振る。
くだらぬものが脳裏をよぎった。
吐き捨てるような台詞と共に、あの集団から離れる。
どうせ今から向かう先に脅威は少ないと聞く。多少は別行動を取ったところで問題はあるまい。
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一人になって道を歩けば、改めて空腹を訴えかける身。
永久に満たされぬこの身の焦燥を一時だけでも忘れられるのは、血肉を啜るその瞬間だけだというのに、
ハザマに落ちてからまだ、その飢えを忘れられる時はない。
手頃な獲物を……できれば女子供の柔肉が好みではあるが、男でも構わぬ。
紅くこの身を染めて、咽せ返るような血の海に身を沈める事が出来るならば、この苛立ちも紛れよう。
ぐるりと視界を巡らせ、思っていたよりは近くに、人の形をした姿を捉える。
がさり、と草を踏み分け先に進めば、そこに、一人の男が。
咲星(サキボシ)
こちらの姿を見ても、そやつは怯む気配がない。
イバラシティの者であれば、一目でわかるこの人外の気配に警戒をしてもおかしくはない。
となれば、同陣営……。
ああ。たしか、同行はせぬが、協力の立場にある者がいると聞いてはいる。
普段は本人が姿を現すでもなく、使いの鳥を寄越すのみであったから姿見は知らぬが、
おそらくこやつがそうなのであろう。
「貴様が、白い鳥の主か」
「咲星です」
協力の立場。アンジニティ側の生き物。
となれば、こやつを喰らおうとすればまた奴らは止めに入るのであろうか。
いや、奴らが気付く前に処理を終えてしまえば良いのでは?
「貴様、人間か?」
「違いますね」
案を思いつき、実行に移す前の問いかけ。
答えは端的で、そして儂の望むもの……人、ではなく。
また獲物とは成りえなかった。
落胆の色を隠そうとは思わない。人の顔色など見る気にもなれぬ。
「……どいつもこいつも……。全く、つまらぬ」
人でなければ、こやつにもまた興味はない。
直ぐにまた獲物を探そうと一歩を踏み出しかけたところで、
こちらの視界から、何かを隠そうとした動きに気付く。
「おい、何を隠そうとした?」
「――お見苦しいとこを」
謝罪など求めてはいない。
問いに答えぬ態度に苛立ちは隠さないまま、もう一度問いかける。
「薄っぺらい言い訳など好まぬ。もう一度問う、何を隠した?」
「すみません、酒が余っていたので少々酒盛りなどを」
「ほう、酒か」
鬼であるならば、人外であるならば、血肉には劣るといえど、それを好まぬ輩などおるまい。
ただ、こやつは思わせぶりに瓶を儂から遠ざけてみせる。
「……一般の方が飲んでいいものではないので」
「一般?儂を何と思うておる。 よい、儂は寛大だ、それをよこせ」
「――潰れますよ」
「ふん、並の人間であれば、の話であろう?」
渋々といった様子がいかにも伝わる相手から、盃を奪うように受け取る。
なみなみと注がれる、清酒に目を細め、注がれた全てを喉の奥へと流し込む。
喉を焼くような熱さ。奴の言う通り、並であれば、この熱に即座に心が焼けてしまうであろう。
ただ、儂は鬼だ。腹は満たされぬが、ただ、気分は良い。
一杯、二杯、三杯……、盃を男に差し出せば、
望めば望むだけ器に注がれ満たされていく其れを、腹の中へと流し込む。
前後不覚になる程たらふく飲んで、地に伏せる。
仰向けに地に倒れ、視界に映るのは空の赤、ただ一色。
そう。これだ。思い出す花はこれだけでいい。
瞳を閉じても消えはしない永遠の紅色。
本当に、久々に気分が良い。
暫しはこの余韻に浸っても構わぬだろうと、酔い時特有の浮遊感に身を委ねる。
地に倒れた儂に慌てたか、男の声が聞こえる。何を言っているかまでは、よく、わからないが。
もし、起こす為にこの身に触れようものなら、その手を戯れに噛みちぎってくれよう。
そうすれば、あの何処か飄々とした態度も変わるだろうか。
儂からすれば、そんな些細な悪戯が浮かぶのもまた、酒が回った証拠なのだろう。
最早、普段通りには動かせそうにもない身で、どう遊んでやろうか、などと。
考えながら閉じたままの瞳で、そんな事を、考え……。
……。
――そして。時は、過ぎていく。