
――昔、私がまだ、貴族の邸宅で持ち回りの『寺子屋』に通っていた頃。
対外交渉術を学び、貴なる人、または貴なる人達を相手にする為に、錬金術の研究の後援を取り付ける為に、所作を学び。
そういった、貴族の御子息達の。情熱的な、礼節としての口説きを。笑顔で、礼節として、……やんわりと断る術を、学び。
休む暇も無く、お父さんの隣で。過去の当主達が生涯を懸けて遺した、錬金術の研究資料を読み解く、いつものような夜。
その日の内容は、忘れもしない、14代目が遺した『紙面上に記した炎熱術式の保存法』についての研究資料。
私は、難解な書式の解読に凝り固まった眉間を押しつつ、父に尋ねたのだ。『液状ではなく、わざわざ複雑な言葉を使ってまで、術式を紙に記す意味が分からない』と。
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『ラザー』 「……紙に残さねば、残っていなければ。先代達の、生涯を懸けて記した術式を知ることは出来ない。紙だからこそ、伝えられる思いがある。……それだけだ。」 |
『ラザー』
私の父親。53代目のラザー家当主。不器用で、時々傲慢で、横暴で、でも絶対的な力を持っている。……ように見せようと、常に努力している、私の憧れ。
本当は呆れるほどに謙虚で、控えめで、曾御婆様曰く『私は未熟者』が口癖だった人。
私に天賦の才があると発覚した時から、自分を超えるべき壁として律して、背中だけを見せようとしてきた、……本当に不器用なお父さん。
今日のお父さんは、手紙を書いていた。宛先は、女傑と噂されている曾御婆様。
……その曾御婆様の研究成果は、手放しで傑作、とは言いにくい内容だったけれど。お父さんは時々曾御婆様に向けて、大判の紙を何枚も使って手紙を認める。
――確かに父上の言う通り、先代達の事を知れるのは、書あっての事でしたけれども。……思い、というのは?
私がそう聞くと、お父さんは一瞬遠い目をして。
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『ラザー』 「初恋、感傷。……言葉ぐらいは聞いたことがあるだろう。そういった心の意味を込めた言葉を、紙に記して、書と呼ぶらしい。 ……たとえそれが、もう会えない初恋の相手であっても。紙に記せば、残せる思いとてある。……それだけの話だ。」 |
そう言って。
『何かを想起するように』、ペン先が横に一つ、空を切った。
(ねぇ、お父さん。その会えない初恋の相手って、私が物心付く前に流行り病で亡くなった、お母さんって人?)
(……それとも、別の、)
そう、聞ければ、今もあの光景を思い出すことは無かったのかも知れない。でも、……たとえ、今あの瞬間に戻れたとしても。
父が、後にも先にも、初めて。『恋』を零したという事実は、今もまだ、言葉に窮するだけの、意味があった。
――それが。
――私の見た、『初恋』について、唯一つの、本当。
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ラザー 「……結構堪えるわねー、実戦って。とはいえ、理屈では分かっていた事だし。そもそも言葉を交わせるからって交流がスムーズに行くだなんて考えちゃ駄目よー? マーム・ラザー。折れない心で光を持って、よ! とにかく進むわよ!」 |
床に倒れ込み、自らの指先を焦点の合わない目で見つめて、それでも口先だけはいつものように、いつも以上に明るく元気よく。
――自覚している。
――心が、折れた。
『住んでいた世界が違う』事を、甘く見ていたつもりはない。事実別世界からの留学生である自分とて、時折、ほんの時折ではあるが世界の違いを実感する。似たような平和的世界からの移動ですらこれなのだ、対極とすら言えるアンジニティの人々との非常に大きな齟齬は予想していた。
だが、いくら予想して、心を擦り減らした所で。傷付ける痛みは、拒絶を選んで否定された痛みは、耐えられるものではなかった。……ただ、それだけの話。
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ラザー 「……さて、取り敢えずはCross+Ross、と。こーんなボロボロだろうと状況は刻一刻と変わるもの、休んでる暇は無いわよー?」 |
気力、ではなく、ただの反射として体を起こして。
後回しにしていた僅かなメッセージの束、その中の一つを機械的に
『先輩! 無事で、本当に良かった!』
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ラザー 「……え。」 |
送り主は火威京介君。それは、知っているけれど。なんで、彼から突然、
『それから……アンジニティ側の人間じゃないということも。――』
いや、違う。……私が先に送ったから。いや違う、なんで私はそんな大事な事を忘れて、
――大事?
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ラザー 「……だいじ。」 |
鰐小屋の前で初めて会った時の、彼の笑顔が大事。
年越しを過ごそう、と誘ってくれた彼の気持ちが大事。
御神籤の結果が悪くても、今の瞬間、私と居られる事が大事と言える彼が、彼の笑顔が、彼の全部が大事。
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ラザー 「なんだ、……そっか、」 |
すとん、と自覚する。
私は。
…………彼に、恋をしたんだ。
女の子に妙な事をした彼に、周囲の目を気にせず、心の底から初めて、誰かに嫉妬したのも。
色恋沙汰が苦手でも、服の選びが少なくても、彼とデートに行く為に、一番頼りになる後輩達へ、服選びの知恵を借りに行ったのも。
……全部、初めての恋を知ったから、出来たこと。
語彙大富豪で、『自分が初恋に負ける』事が妙に気になったのも、当然だ。私は既に、初恋を知って、負けている。変わりつつあるから。
ハザマで彼の名が思い出せなかったのも、当然だ。『初恋』が、怖かったから。初恋を知れば、明確に、……変化する、直感があったから。今までの人生で培った、自分の中の真実と嘘をないまぜにする思考ですら。彼と過ごした味覚を、覆い隠せない程に、彼への感情が、膨大に、鋭利になっていたから。
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ラザー 「……だって、そうじゃない。初恋を自覚した瞬間、私は何をしようとしているの?」 |
楽し気に、誰かに伝えるような、謳うような調子で、板のチョコと青いリボンを創り出す。
だって、分かってしまったから。彼への恋心が、彼へ渡した、私のチョコは、誰が渡したのか。
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ラザー 「だってあれは、ハザマに居る、今の私が渡したもの。摂理を捻じ曲げ、時空を手繰ってまで渡した、『私の本命』。」 |
そんなことは不可能だ。だから、今だけしか出来ない。
彼への思いを自覚した、今だけの奇跡。ただチョコを渡す為だけに、他の全てを差し置いて、大事な全部よりも尚、彼が大事と言い切れる今だけの奇跡、『可能性』。
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ラザー 「……ねぇ、京介君。……伝わるかしら。」 |
ハザマの断絶故だろうか、流石に言葉には『ゆれ』がある。
……それでも。これは、言葉にしたい。
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ラザー 「 。 、 。 、 。」 |
京介君。それは、私の恋心。摂理を捻じ曲げてでも届けたかった、初恋。