
思えば、父親の物忘れの激しさは異能によるものだったのかもしれない。
当時は異能がどんなものでひとにどのような影響を与えるのかなんて考えもしなかったから、その事に気が
ついたのは父の葬儀が終わってしばらく経ってからだった。
ひとの顔と名前はなかなか一致しないし、何度か作ったことのある料理も初めて作った時のような新鮮な間
違え方をする。
調味料の瓶にガムテープを貼り、誰が見ても塩か砂糖かわかるように書いた。小学校に上がってからはイン
スタントのラーメンなら作れるようになった。
彼が覚えていられないなら、おれが覚えていればいい。
それはとても簡単なことで、もっともいい方法のように思えた。
懐かしい夢をみた。
職場の近くの花屋に両親への供花を買いに行って、親切な店員に選んでもらったこと。スターチスの寝転ん
だらまどろんでしまいそうな柔らかな花弁にカスミソウの甘い香り。ふたりの店員はどちらもとても穏やか
で、どうかこの先も続いてほしいと思う店だった。
甘い香りの後に、鼻を抜ける爽快感が全てをさらっていく。
そうだ、渡したミント飴で悶絶した妹分の労いに焼肉を食べにも行ったのだ。あの時も色々な話をしたが、
結局最後はあの飴を食べることになり、散々な目にあった。けれど次に来る夏が楽しみにもなったから結果的
によかったのだと思う。なにより楽しかった。
なんだか食べてばかりな気がする。そういえばあんこの詰まった中華まんも最近食べたばかりだ。
あれはそう、職場の差し入れでもらった。不安定な天気が連日続くというのに傘も刺さなかった客人は、気
にするそぶりすら見せず笑顔のまま現れた。口実だなんて言っていたけれど、それが本当なら嬉しく思う。あ
あやって落ち着く時間を過ごせる相手はなかなかいない。
最近の記憶に引っ張られるように古い記憶が入り混じる。
水の放流のごとく溢れ出す映像や声の波に自分がどこにいるかわからなくなって視線を落とすと、見慣れ
ない木刀を握りしてめていた。
ここはハザマだ。
暗く紅い日の下を歩き続けていたからか、一瞬、忘我の地に入りかけていたようだ。
丁寧に布が巻かれた木刀の持ち手を握ると、もやのかかった思考が次第に晴れてくる。
シロナミとノウレットのやり取りは一方的ではあるものの、ここでは唯一の情報源だ。ロストが何者かはわ
からないが記憶に留めておいた方がいいだろう。
手帳にそれぞれの名前と影響力のつながりを書き連ねていく手が途中で止まる。向こうと紙の減り具合に差
ができはじめていた。
自分もイバラシティでの五十森巽の記憶を持った別の何かになりつつあるのではないか。記憶のひらきにそ
んなことを考える。
砂利道に足を取られて転びそうになった。
考え事をしながら歩くものじゃないなと、思う事はこちらでもあちらでも変わらないのがおもしろい。
この調子ならまだ平気そうだ。
気を取り直して手帳に書いた名前を見る。
恐らくロストとワールドスワップに直接的な関係はない。今回の侵略騒動でたまたま影響力を求めるものが
いて、たまたまそれを与えられるのがロストの七名だったというだけだろう。
ロストの願い。願望。
イバラシティの願望はこの侵略行為を防ぐことで、アンジニティはイバラシティを侵略すること。
本当にそうなのだろうか。
創造主と呼ばれた人物が何を指して創造主と言うのか。もはやわかることの方が少ないこの状況での安易な
思い込みは危険だ。
そもそもアンジニティとはなんなのか。
侵略されているという前情報はあるが、それがいったい何のためでどのような背景があってのことか、自分
たちは知らない。
領地や資源、労働力を手に入れるためであるならもちろん看過はできない問題だ。
しかし他の理由があったならどうか。
創造主はハザマに招かれた者に対し「申し訳ありません」と溢していた。後ろめたい理由がなければそんな
ことを言う必要はない。
特定の誰かに向けたものでもなかったから、対象は「ハザマに招かれた者全員」になる。
アンジニティもイバラシティ同様、巻き込まれただけなのではないか。
そんな考えが頭を過ぎる。
侵略者という肩書を与えられ、イバラシティの住人から攻撃を受ける正当性を理由づけられ、どこか外側
の、自分たちが認識していないもっと大きな目的に利用されているとしたら──創造主が謝罪に近い言葉をか
けてきたのも納得できる。
イバラシティという報酬はエサでしかないのかもしれない。
第三者の存在が確認できた今、何か裏があると警戒した方がよさそうだ。
戦う覚悟はできている。
しかし武力を振りかざすつもりはない。
中途半端な覚悟だが、もし侵略に肯定的ではないアンジニティの住人がいたのなら、その時はできる範囲で
協力したいと思う。
困っているのはお互い様かもしれない。
理不尽な状況に怒りが沸いた瞬間もあったが、朽ち果てて寂れた大地を見ていると、そんな気持ちも幻のよ
うに揺らいで消えていった。
そうして歩くうちに、人気の多い道に差し掛かる。
だいたいは人型で、みな連れと歩いていた。
真っ直ぐな一本道に押し込まれる形になっているので実際の人数はそこまで多くはないのかもしれない。
クロスローズの地図で確認できるチェックポイントは、もう目と鼻の先にあった。