
おれが生まれた村の風景は、ぼんやりと覚えている。
山間の小さな村で、イバラシティほど多くの人は住んでいない。土を盛った小山のような家が20軒かそれより少し多いくらいあって、その周りには青々とした田畑が広がっていた。
田畑を横切るように流れる大きな川ではよく子供が遊んでいたのを覚えている。魚取りや石投げ遊びに興じる子供達の楽しそうな様子を、おれは混ざる事もできずにただただ眺めているだけだった。
おれは生まれ故郷の土を踏み締める事もなく死んだけれど、なぜだか意識はずっと消えずに残っていた。
初めは山の中をうろついていたが、次第に村の方へ降りていって、そこからは山の方へ人が近付かない限りはずっと村の様子を見守っていた。
言葉を習わなかったおれは村のみんなが口を開けて何かを話していても、その内容を理解できなかった。だから、懸命に耳を澄ましてみんなの心に耳を傾けた。
喜び。安息。焦り。不安。恐怖。怒り。意識を研ぎ澄ませば色んな感情に触れられた。
でも、ある時期を境に村の中で感じ取れる心に偏りが見えてきた。
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こわい。こわい。いやだ。たすけて。 |
ある時は日照りが続き、田畑が渇いて人々が痩せ細っていった。
ある時は床に伏せる人が増え、様子がおかしくなって死んでいく者もいた。
ある時は長雨が降り続き、山が崩れたり川の水が溢れたりして土地も家も人も壊されていった。
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こわい。たすけて。どうして、 |
やがて、村のみんなは山に小さな祠を作ってそこに手を合わせるようになった。
祠が立った場所は、おれが最初の頃にうろついていた山の中。おそらくはおれが埋められた位置だった。
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おねがい |
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たすけて |
村で人が死ぬ度、災いが起こる度、必ず村から人がやってきて祠に手を合わせた。
祠の前にわずかな作物や魚が置かれる事もあった。見知らぬ人が舞を踊ったり何かを唱えたりする事もあった。
彼らが祠の前で話す言葉はやはりおれには聞き取れなかった。けれど、心の声は痛いほどに届いていた。
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もうやめて |
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おねがい |
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たすけて |
村のみんなはおれのせいで村が災いに遭ったのだと考えていた。
だから祠を作って、捧げ物をして、手を合わせて、どうか怒りを鎮めてくださいとおれに頼んでいたのだろう。
おれ自身はそんな事をした覚えは全くなかった。けれど、おれが死んだ少し後から村の様子が大きく変わってしまったのは確かだった。
その後も、おれが戸惑い続けている間に村は荒れ果てていった。
流行り病で人が死んだ。長雨で作物が腐った。山から降りてきた獣が村を襲った。
おれが何もしないうちに村は荒廃し、やがて村から人が消えた。
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「おれが、いけないの?」 |
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「おれがいたから、みんないなくなったの?」 |
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「おれは、ここにいちゃいけなかったの?」 |
否定の世界に堕ちるまで、おれは古ぼけた祠と共に山に留まり続けた。
自分の存在を呪いながら、生まれた罪を悔いながら、ずっと村の残骸を見下ろしていた。
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「 、 」 |
何か温かいものに触れられた気がして、意識を己の内側から外に向ける。
己の外に広がる景色は記憶にある故郷のそれとはずいぶんと異なっている。空は赤く、道は舗装され、歩道と林は鉄製の柵で区切られている。
荒廃した雰囲気はあれど、自分の生まれ育った土地と比べるとかなり近代的な発展の跡が残された世界。
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レスター 「……やる。俺が持っていても仕方ない」 |
おれの目の前には、いつの間にかあの人がいた。
どこかいたたまれなさそうな顔をした彼の手には、小ぶりな桜の枝が握られている。
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“ ” 「それ、この間拾った桜?」 |
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レスター 「ちさが長持ちするように手を加えたらしい。 お前が持っておけ」 |
——細く骨張った指が髪を掻き分け、花飾りのように桜の枝を挿す。
ためらうように髪に触れるやさしい指。刃を握る時の荒々しさとは遠くかけ離れた穏やかな人の手。
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“ ” 「……いいの?」 |
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レスター 「いい。お前の手元にあった方が長持ちするだろう」 |
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“ ” 「………………」 |
ゆっくりと、左耳の上に挿された花に触れる。
二人分の想いが込められた花はやわらかな温度を宿して咲いている。
否定の世界に堕ちたばかりの頃は、自分はこの世にいてはいけないのだと思っていた。
自分がいるせいでみんなは不幸になった。自分はそこにいるだけで災いをもたらす呪いに似た存在だ。
けれど、忌まわしいこの身を拒まない人がいた。仲間として認めてくれた人がいた。
親しみを持って接してくれる人もいた。守りたいと言ってくれる人もいた。
高国藤久は生者を恨む怨霊だ。否定の世界で天からの声を聞いた後、おれ達を侵略に誘ったのは藤久だった。
藤久の周囲には無数の声が響いている。大勢の思念が渦巻いて、波のようにうねって鳴いている。
蒼黒の嵐の奥から微かに聞こえる「さびしい」という声は、一体誰が発したものなのだろう。
雛菊は幼くして死んだ少女だ。いつも穏やかな笑みを浮かべていて、時々おれの頭を撫でてくれる。
雛菊の心の声はいつも静かだ。最初は藤久やあの人の声に掻き消されているだけかと思っていたけれど、二人きりになった時にそもそも音がしないのだと気付いた。
雛菊の心が激しく揺れ動く音をおれはまだ聞いた事がない。雛菊の心には波もなく、流れもなく、時折小さな波紋が生まれる他に変化はない。とても不思議な雰囲気だった。
祐善ちさは悪意に満ちた死を与えられた少女だ。ちさはおれの事をよく気にかけてくれて、頭を撫でたり手を繋いだりしてくれた。
ちさはおれに自分のきょうだいを重ねているらしい。おれの姿に、触れ合う手に、いつか離れ離れになった家族のぬくもりを感じているのだろう。おれと同じだ。
ちさの隣にいると、時々心が軋む音がする。噛み殺した悲鳴にも似た音が、少しずつ内側からちさを抉っている。
杉乃遼馬の事は、おれはよく知らない。最初は少し離れた所にいておれ達の話に加わらなかったけど、最近は少し打ち解けてきたような感じがする。
遼馬と話した経験は数えるほどしかないけれど、遼馬の心からは痛いくらいにやさしい音が聞こえる。
会津仁弥とアイネはおれを知らないはずだった。でも、四ツ谷幽綺を守りたいという理由でおれ達の力になってくれた。
アイネは普段会津くんの心の奥にいるのか、ほとんど声は聞こえない。時々アイネが顔を覗かせると、吼えるような慟哭が響き渡る。
会津くんは何食わぬ顔で澄ましているけれど、心の奥からは寂しいと泣く声がする。
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“ ” 「………………」 |
彼らのために何ができるだろう。
制御のできない呪いでしかない自分が、彼らの役に立つ事はできるだろうか。
強い願いを抱いて戦い続ける彼らを支えて、その願いを叶える事はできるのだろうか。
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“ ” 「おれは、」 |
あの人の心は叫びで満ちている。怒りや憎悪や苦しみの奥で、捨てきれない想いがひとつだけか細い声で泣いている。
あの人は自分の本当の願いに気付いていない。
激情で目と耳を塞いで、向き合わないように心の底に閉じ込めている。
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“ ” 「おれは、みんなの力になりたい」 |
おれを受け入れてくれたみんなのために、その願いのために戦いたい。
けれど、イバラシティの人々を傷付けたくはない。
四ツ谷幽綺の友人に——彼が愛する人々に傷付いて欲しくはない。
イバラシティの侵略と、イバラシティの住人を守る事。両方を取るのは不可能だ。
少なくとも今のおれにはできっこない。
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“ ” 「だから、もっと力が欲しい」 |
みんなを守れるだけの力を。
誰かを傷付けずに済む力を。
自分の願いを叶えられるだけの力を、おれにください。
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“ ” 「……おとうさん」 |
祈りを捧げられる側だったおれが何かに祈る事なんて馬鹿げているだろうけど。
少しでもこの願いが叶うように、己の望む姿に近付けるように、ただただ手を合わせて祈った。