最初に見たのは、雨に濡れる母の姿。
母親というには若い、寧ろ幼い風貌の少女は腕の中にいる赤ん坊の目を見ていた。
「泣かないでね」
静かな声で言葉が紡がれる。
「暴れないでね」
少女はゆっくりと赤子を地面に下ろした。
「お願いだから、恨まないでね。」
それは懺悔であり、身勝手な願いであった。
言葉のわからない赤ん坊がそれを理解するはずはない。
けれど少女は目の前の赤子がきっと静かにしてくれるだろうと確信していた。
その言葉は、赤ん坊に与えられた最初の『命令』。
これからの土台となる絶対的なルールとなった。
「────────」
赤ん坊は泣きもせず、手を伸ばしもせず、足早に去っていく母親の姿を見つめていた。
捨てられた、などと理解するはずがない。
ただ、いくつかの言葉が自分には与えられたことを理解していた。
それは赤ん坊にとって、たった一つの『母からの愛』だった。
産声を上げることもなかった赤ん坊は、雨が降る街の中、施設の職員が発見するまで一言も声を発することがなかった。
これが、一つ目の幸運。
その赤子は手のかかる子供だった。
騒いだり、夜泣きしたりすることはない。
しかし、いちいち指示を出さなければ食事すらしないほど無気力だった。
赤子に宿った異能は強力な自己暗示。
どんな命令でも意味を理解すれば聞き入れるが、裏返せば命令が無ければ指先一つ動かせない。
『命令』によって泣き声を上げられない赤子は、自分の欲求を伝える術を持たなかった。
その『命令』によって生じた障害であることも、誰も知らない。
「いっそ殺してあげた方がいいんじゃないか」
「馬鹿なことを言わないの!」
「いつまでたっても自主性が芽生えないじゃないか。あれを生きていると言えるのか?」
「笑うことだってあるわ」
「それだって自分たちが教えた事だろう。あのまま成長したら行く先は碌なものじゃない」
「だからって……」
職員達の言い合いが聞こえても、赤子はそちらに意識を向けはしない。
いつしか赤子の首には異能制御のための機械が取り付けられていた。
施設にいる他の子どもが冗談で口にする「死んじゃえ」という言葉を真に受けて自分の首を絞めたことがあったからだ。
赤子の中にあるのは、母親の言葉と施設職員に言いつけられた一日の行動のみ。
泣かず、暴れず、恨みもせず。
制御装置に入力された一日のルーチンワークを忠実にこなす。
それだけの日々を二年間続けた。
結局処分されることもなく、施設の隅で生き続けた。
二歳になったある日、赤子の人生は一つの転機を迎えることになる。
施設を訪れたとある夫婦が、彼女を養子に迎えたいと申請してきたのだ。
「あなたは今日から御堂翠華になりますからね。」
綺麗な着物を着せられて、小さな手を握られて、しっかりと目を見て言葉が紡がれる。
「あなたは私たちの大切な娘なのですから、これからどうぞよろしくね。」
"はじめまして"はこれっきり。
数か月もしないうちに名前のなかった赤子は『御堂翠華』になっていった。
これが、二つ目の幸運。
生まれた時から見えていた"それ"が何なのか、終ぞ疑問に思うことはなかった。
何かをじっと見つめるとそれは現れた。
それが見えている時は、自分はそこにあるものを自由に動かすことができた。
おもちゃを引き寄せたり、折り紙を折ったり、冷蔵庫を開けてみたり。
重さも大きさも関係なく、あらゆるものを動かし、曲げて、回転させることができた。
それを見た両親はとても喜んでくれた。上手ね、すごいねと。
それが嬉しかったし、何より色々楽だったから、私はその異能を使い倒した。
どこまでいける?なにをやれる?
便利すぎるこの力の限界を知りたくて。
だから
こうなることは、仕方なかった。
少しのズレが、惨劇を招いた。
柱が折れて、木材が崩れて。
私に、降ってきた。
幽霊になって戻ってきたときには
そこにはもう、『御堂翠華』がいた。
(面倒なことになったなあ)
ハザマで目についた何かを曲げて投げてどかしながら進んでいく。
実際すり抜けるからその必要はないのだけれど、生き物をすり抜けるというのはなんとなく気持ちが悪い。
(誰にも私は見えてないみたい)
できることは通信機をジャックして短い言葉を飛ばすことのみ。
そこから場所を特定して、ようやく目当ての相手を見つけた。
『──コメット!』
地面を蹴って走る。
短い歩幅では追いつくのに時間がかかったけれど、息が切れることのない霊体は時間さえあれば歩いている人には追い付ける。
『コメット、わかる?見える?』
"妹"は進み続ける。
私に意識を向けることもない。
『……やっぱり、見えないのね』
しょんぼりと肩を落とす。
彼女ならあるいは、と思っていたのだけれど。
『そんな体でどこへ行くの』
飴のようになった体は見ていて痛々しい。
どこから砕けてしまうかわからない。
『止まって、止まってってば!』
なんとか治さなくては。
せめて休ませなければ。
彼女が戦わなくても戦争は続いていく。戦える人はたくさんいる。
失わせてはいけない。もう二度と、両親の"娘"を失わせるわけにはいかない。
私が守らなくてはいけないのだ。私にできることならなんだってして、彼女の存在を保たせなければ。
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亡霊:御堂翠華 「……うるさいんだけど、何。」 |
頭上から声がした。
真っ黒な着物に身を包んだ少女。
……御堂翠華だった頃のコメットだ。
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亡霊:御堂翠華 「いくら話しかけても聞こえないよ。 幽霊の声なんて聞こえるわけないんだから。」 |
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亡霊:御堂翠華 「私がいないとあなたはただの地縛霊。誰にも見えない霊体だもの。」 |
『あなたは、イバラシティで私の中にいた子ね。』
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亡霊:御堂翠華 「そんなこともあったね。 もうちょっと動きやすい体だったらよかったんだけど。」 |
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亡霊:御堂翠華 「……御堂翠華。 私は、あなたが羨ましかった。」 |
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亡霊:御堂翠華 「お父様もお母様も、私を通じてあなたを見ていた。 私はあなたになりたかった。 本当に娘として愛されたかった。」 |
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亡霊:御堂翠華 「──だから、嫌い。 何もできないのなら、早くどこかへ行って。」 |
そう言ったきり、彼女は顔を背けて歩き出した。
いくらハザマの生き物を倒しても、アンジニティからも見えない自分はこの戦いに貢献できない。
なにも、できない?
何も……
『そんなこと、あるものですか』
目元を拭って歩き出す。
何もできないなど、あるものか。
守ってみせる。私が必ず。
誰にも彼女を傷つけさせない。誰にも彼女を損なわせない。誰にも彼女に触れさせない。
ぎしり。
コメットの右肩が飴に置換された。