
講堂には、既に人が多く集まっていた。
殆どは子供であったが、中には大人も混ざっている。子供が多いのは、当然のことだ。子供たちは毎日『講堂』に来ることが義務付けられている。大人として認められたのであれば、それが10日に1度で許されるようになる。
『橙』は極力 前の方に、『黒』は不自然で無い範囲で後ろの方に それぞれ陣取る。
『橙』は左右を見る。どちらも自分より年下、特に左には 教育を受け始めたばかりくらいの 6つか7つ程度の年頃の子供で、左右の手を灰まみれにしている。
「(灰数えの役、それも今日が初めてか)」
左の子供がガタガタ震える中、『橙』は淡々と考える。灰数えとは、まだ調和竜信仰が上手く植え付けられていないうちに課せられる、早朝の苦行である。何をするのかと言えば至極単純、文字通り灰を数えるだけである。数えた数の成否は問われない。数え方にも決まりは無い。意味等、無い。
ある程度成長してから、この苦行に意味が無かったと知る。そのころには、『無意味であることが意義』だと教えられる。最初のうちに限った話だが、調和竜の意志を受け取るために 疑問を思い浮かべるような知性を『破壊する』必要があるのだと。
大半の人間は、それを
素晴らしいと表現した。だからこそ『橙』は、
「(……もっと違う手で、信仰を伝えることは出来ないのか)」
そんなことを、言葉に出来る筈無い。
信仰を広めること自体に異論はなかったが。
背後からは、会話が聞こえる。
『橙』は、耳を傾ける。ここは最も多くの年齢、職業の人間が集まる。普段聞けない会話が聞こえる。
「聞いた? さっきの通達」
「また『竜殺し』が出たそうですね」
「調和竜がそんな役目を与えるなんて……」
「愚か者。調和竜はこの国の平和を考えて役目をくれる。国を乱すような、ましてや調和竜に背くような役割を与える筈がありません。つまり彼らは勝手に背いて勝手に荒らしまわっていることになります」
「しかし、調和竜は僕たちひとりひとりに見合った役割を与えている。反逆因子になるような輩が現れる筈がない」
「ええ、あなたの言う通り、反逆因子が生まれる筈は無いのです。調和竜はこの国の平和のために、人々に役目を与えている」
「だが、この現実は何だ? 実際に『竜殺し』は存在して、実際に『守護者』が被害に遭っているだろう。そして 勝手に背くような人間が存在しない以上、『竜殺し』は調和竜によって 与えられた役割のひとつとしか……」
「何を言っているのですか、反逆因子が生まれる筈なんてありません。調和竜はこの国の平和のために……」
『橙』はこの辺りで、背後の会話から意識を背けた。破綻した、それも似たような会話が繰り返されるばかりで、これ以上は身にならないと感じたから。
『竜殺し』とは、予てより存在する反逆集団だ。『神子』や『守護者』等、竜に近しい役割を持つ者に対して繰り返し攻撃を仕掛けている。『竜殺し』と呼ばれてはいるが、実際に竜を殺した実績があるわけではない。それは彼らの最終目標だ。それは愚かなことであると、この国の人間は殆どに周知されている。
別の場所から、違う会話も聞こえてくる。視線を動かせば、頭からつま先まで灰まみれの服を着た 小柄な人間。おそらく、『灰掻き』だ。
「ケホ、ケホ、……なにかきこえるね」
「きこえる。りゅうごろし?」
「りゅうごろしってなあに?」
「わたし、わかんない」
「ぼく、知ってるよ! さっき、神子さまからきいたんだ。りゅうごろしっていうのは、ごあいさつ!」
「ごあいさつ?……ケホッ、ケホッ」
「そう、ごあいさつ。だから、『中』ではたらく人たちは、ひとと会ったら りゅうごろしって言うんだ!」
「へぇー。マロンは ケホッ、かしこいなあ。……ん、ん。わたしも、ごあいさつ、する。 りゅうごろしー」
「りゅうごろしー」
会話を聞いて、間違いなく『灰掻き』だと確信する。
彼らは『内側』の情報を一部統制していると。そんな噂を耳にしたことがある。また、ひとり 頻繁に咳き込んでいる声がした。これも、『灰掻き』の特徴。
しかしここで、違和感を覚える『橙』だ。『灰掻き』は職業だ、つまり彼らは皆 一人前と認められた存在で、『橙』よりも年上の可能性がある。
それにしては、妙に会話が幼いような。
それだけではない。マロンと呼ばれていた1人は先ほど『神子さまからきいた』と言っていた。頻繁に咳き込んでいたものは、それを忘れてしまったかのように マロンは賢い と評していた。
それが何を意味しているのか、『橙』には分からなかった。
それ以上考えることも、許されなかった。――今日の『神子』の、準備が終わったのだ。
『神子』によっては、それを始める前に 演説をする者もいるのだが、ネージュという神子はそういった時間を好まないらしい。講堂が静かになったタイミングで、書物を開く。
「――
灰被る国の民 全てへと向けて、色無き竜は仰せになった」
講堂の空気が青く染まった、そんな感覚がした。
無論、実際に空気が染まったとは限らない。しかしその場にいる人間にとって、それが事実か幻か どうでもいいことなのだ。
ただ、心を無にして その言葉を受け止める。
『橙』も、委ねている。いつものように。考えることを放棄して。
そうする、筈だったのだ。
「
灰被る国の外に御座す4柱の竜どもは、今なお 争いを続ける。衰えれば狂い、栄えれば暴れ、何れにせよ人の世を蝕む。よって、4竜の上に立つ 色無き竜は この灰被る国を興した。―― いつ調和が乱れても、正せるように。『英雄』を世に出せるように。そこから 色無き竜は『調和竜』とも呼ばれた」
読み上げ始めてそれほど経たずして、『橙』のすぐ左にいた子供が蹲った。
それはひどく目立つ動きだ。なにせ、今は皆 『神子』の言葉を聞くことに夢中になっていた。それだけではない。言葉を聞く以外のことを今 やってもいいのだと、言ってくれる者は誰もいない。だから、動く者はいない。
「
おい、大丈夫か」
『橙』にも、どうして自分がそうしたのか 分からない。
「
嘗ては『点繋ぐ英雄』の生誕を待つのみであった。しかし、外に住まう黒き竜は幾度となく立ち上がり続け、終いには英雄が生まれるよりも早く調和を乱すに至った。故に色無き竜は、灰被る国を『英雄の国』と定めた。英雄で在れ、英雄と成れ」
そうしている間にも、神子の言葉は続いている。
『橙』は
その子供を助けなくては、そんな感情が塗りつぶされようとしている。
分からない。どうして話しかけた。
助けたいということにわざわざ理由が無くてはいけないのか。
人が苦しむところは苦手なだけ、そのためには
どんな手を使ったって、
今は駄目だ、『神子』の言葉を聴かなくては。
苦しんでいる、助けなくては、
『神子』の言葉を聴かなくては。
思考が乱れ、今度は『橙』が膝をついた。
「
誰か、……、くそ、『守護者』か『癒し手』は、いないのか……!?」
叫んだつもりだったが、あまりに小さな声しか出ない。
喩え叫ぶことが出来ていたとしても、動く者はいない筈だと、知っている。
それでも今出来るのはそれだけだ。
やがて、誰かが 子供を抱きかかえていく姿が見えた。
「――僕と違って、もう遅いんだよ。人参。テメェはそこでぼんやり頭融かしてりゃいい」
そんな声が聞こえた気がした。黒い髪をしていた気がするが、顔はよく見ていない。
誰であろうとどうでもいい。
抗うことをやめれば思考の乱れも消えたし、そもそもどうして抗おうとしたのかも考えられなくなっていた。
せんのう
あの子供はどうなったのか、無事なのか。そんな感情は 信仰 にかき消された。