
どんよりとした空の下で静まり返っていた空気を、ふと誰かの声が揺さぶる。
「―――覚悟はあるんだな。ま、こんなことをしちまうくらいだもンな」
「―――あなたこそ。命知らずだなんて言われても、言い返せないわよ。まあ、せいぜい気をつけなさい」
その凛とした声が流れてくると、岸辺でかがみ込む一穂の心拍は、ほんのわずかに乱れた。
ほどなくして、会話を交わしていた二人の男女を乗せたボートが、小屋とは別な位置から現れる。
片方の少女は、一穂のよく知る人だった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
この少女、川野美香(かわの よしか)は一穂と同じく十四歳ほど。青っぽく染めた毛をボブカットにしておきつつも、マゼンタのトップスをまとってコントラストにしている。
相方はもう少し年上らしい角刈りの少年で、上半身のボリュームはひと目で体育会系の人間だと思わせるだけのものがある。彼は美香の代わりにオールを漕いでやっているのだが、それはより力があるから、というだけではなかった。
「最後に行方不明者が出たのは、ここから方位2-1-0、1キロばかし先の岸辺だな。つっても三日前の話だ、あんたの言うことが間違ってないんなら……」
「どこがヤバいかわかったもんじゃない。だから、あたしの力が要るんでしょう?」
ボートは、不自然なほど波紋を起こしていない……まるで、水面を文字通り滑るようにして進んでいるのだ。そんな凪の湖を、美香はじっと見つめている。ボートの上に立ったままで。
鏡でも持ってくりゃよかったかね、とつぶやく角刈りの少年は、ふと、
「お。ちょっと、あっち」
と、目を脇に向ける。
「ああいうの、探しゃいいンだよな?」
少年の視線のずっと先では、何やら水鳥達が蠢いているようだった。
美香も同じ方に目を向けて確認をすると、
「双眼鏡ある?」
「まあ……」
「借りるわよ」
美香は少年のものらしいバッグの開きっぱなしの口に手を突っ込むと、黒い双眼鏡を取り出して水鳥の群れを拡大する。
どうやらいるのはマガモで、求愛行動の最中らしい。雄のマガモたちが頭をリズミカルに上下させて水面を打ち、雌にアピールをかけている。
その数は、百羽どころではないかもしれない。頭を緑に染めた大勢の雄たちがせわしなく動き回る様は、砕いたエメラルドをふるいの上ではね回らせているようでもある。
「近づいて」
少年は、美香の指示に巧みなオールさばきで応え、ボートを進めていく。やはり波は起こらなかった。
ほどなくして、マガモたちの様子を肉眼でも捉えられる距離に至った。
「これさァ、人間で例えると―――」
「……バカ言ってる場合じゃないわよ」
雄どもの求愛のディスプレイはますます激しくなるようだ……美香には、単に近づいたからそう見えるというだけではないはずだとわかっていて、それが緊張をさせている。ボート脇の水面を凝視する彼女の表情は、角刈りの少年からはよく見えない。
パシャパシャパシャ……雄のカモたちはひっきりなしに首を振り、水面を波打たせる。人間の目からすれば明らかにやりすぎで、雌の側も「引いて」いるように思えなくもない。
「こいつらポロって首取れたりしねえか」
少年は淡々とジョークを飛ばしてみせたが、
「今は目ェ使って。口じゃなくて」
美香はつれない返事をする。
しかし当の彼女自身の目はカモたちではなく、奇妙に凪いだボートの周辺に向いていた。
バシャバシャバシャ……
鳥たちが作る円い波紋が、水面に広がる。あるものは打ち消しあい、あるものは重なり合う。
バシャバシャバシャ……
波紋が、広がる―――
ふと、そのうちの一つが凪の中を抜けて、ボートの横っ腹を撫でた、その時だった。
グワンッ!!
ボートが突然、大きく傾いだ。
「うぉッ!?」
「来た!?」
角刈りの少年は身を縮め、美香は即座にかがみ込んでこらえる。そのまま彼女は、ボートの底に置いてあったクーラーボックスの蓋を開けた。
瞬間、中から、ブワァーッ……白煙が吹きだす。ドライアイスのかたまりが入っていたのだ。
二人は、今このボートを揺らしている者こそがカスミ湖を訪れた人々を消してしまった犯人であると、確信をした!
「エタノール!」
「ホイ!」
ボートの揺れは収まらず、どんどん大きくなる一方だ。
そんな中でも少年は自分のバッグから無水エタノールのボトルをいくつも取り出し、ドライアイスの中に注ぎ込む。
「なんとかなンのかよこんなんでさァ!?」
「あんたが大学行ってりゃ液化窒素頼んでた!!」
クーラーボックスの中身が十分低温になるまでには少し時間がかかって、それまでは持ちこたえなくてはならなかった。
あれほど凪いでいたボート周辺の水面は、今や慌ただしく揺らめいている。ボートが傾くたびに波は起こるし、回数を重ねるほど大きくなってくる。
すぐに、跳ねた水がボートの中にいくらか入り込みだすようになった。
「やっちゃえってンだよォ!!」
「駄目ッ!! 耐えて!!」
しかしボートはもはや四十度以上も揺らされていて、こらえるのも限界が近い。
それでも美香はクーラーボックスを構えたまま踏ん張り続け、荒れる水面を見据え、時を待った。
そこへ、ザバァ!! 背中の側から大きく揺さぶられ、美香は前につんのめる―――
「危ねェ―――」
角刈り少年のゴツゴツした右手が、美香のわき腹をわしづかみにし、引き留めてみせた。
そのまま、美香は―――
「えぇいッ!!」
後ろの次、前方に迫る大波めがけ、クーラーボックスの中身を叩きつけた!
バッシャーッ!!
もうもうと立つ煙の中に、美香は、白く固まったものを見た。
不定形のなにかだが、丸みの大部分は斜め上に向き、放物線運動をいまだに続けている。
降ってくるそれを捕まえられるように、美香はクーラーボックスを構え直した……
だが……ザバァーッ!!
後方から、再度の大波が押し寄せる!
「オブァッ!?」
角刈りの少年は無意識にボートにしがみつき、耐える。けど、それに何の意味があろう? ボートごと転覆してしまったら、終わりだ……
が、ボートは持ちこたえた。少年もである。
……ただ、美香一人が落下し、水中でもがいていた!
「美香ァッ!!」
角刈りの少年が、それを見て叫ぶ。
「逃げて! このことは忘れて……!!」
美香は、何かに引きずり込まれているようでもあった。
「ンなこと……ンなことッ!!」
少年が自分の服を引っ張り出したその瞬間に、美香は水中へと消えた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
美香は、してやられた、と思った。
このカスミ湖に潜む怪物のことを、彼女は知っていた。
怪物は水と同化し、捉えどころのない存在であるが、水面の『波紋』の上にしかいられないらしいことがわかっていた。また『波紋』が大きく激しいほど怪物の力も強くなるのだが、なぜだかその力で人を呑み込もうとする。あの雄ガモたちの暴走も、怪物が『波紋』を作らせるために何かフェロモンのようなものを放ったのかもしれない。
そして美香は怪物が飛びかかってくるところを、ドライアイスとエタノールの組み合わせで凍らせにかかったわけだが、来たのはダミーであり、不意打ちをされてしまったのだった。
上を見ると、ボートの周りはまだ少しずつ波打っているが、さっきほど激しくはない。
美香が軽く念じると、波はスッと消えてしまった―――美香には、視覚によって捉えたあらゆる『波』を『凪ぐ』力があったのだ。イバラシティに住まう者、来る者は、皆なぜだか何かしら不思議な力―――異能を持っている。
この異能を使えば『波紋』の中を動く怪物など抑え込めそうなものだが、力としては相手の方が強かったらしい。
いずれにせよ、怪物は少年の方には興味がないらしい。
かわりに美香の足を掴み、宙ぶらりんの格好にしている……足首から、太ももへ、さらには腰へ。見えない怪物がまるで大蛇のように、冷たい水の身体を絡ませてきているのが美香にはわかった。
このまま最後には首を締め、とどめを刺しにかかるのだろう。
こんな場所で死ぬのか。
―――自分たちなど、いつ死んでもおかしくはないのだとは、わかっていたが。
遠のいてゆく意識の中、美香は視界の隅に、何か赤っぽいものが迫ってくるのを見た。