◇　◇　◇

その日のことはよく覚えている。　












その日、目覚めたのは珍しく昼過ぎで。　
彼はいつにも増して落ち着かない素振りで、私のことを睨みつけていた。　
曖昧な喪失感を引き摺ったままの私は、その視線をまっすぐ受け止めないように。　
僅かにだけ顔を逸らしていた。　

いつもならきっとすぐさま怒ったのに、その日の彼はそんなことなくて。　
寝坊をして、返事もできない私を、ひたすらに注視していた。　





ひとりぶん空白の多くなった部屋は。　
春の訪れを前に、冷えた空気を孕んでいた。　












凄むような、身を竦ませる声。　
そのように“躾け”られてきたから。　
私は、要領よく頷いた。　








私の大切なものを欠いて、その一日は始まった。　








部屋の中が静かだったのは、そのうちだけで。　
彼の緊張が解けていくにつれ、空気を介して苛立ちが肌を撫でる。　
ひとこと、ふたことの汚い言葉が鼓膜を射る。　


ああ。この人は、あの子が死んでも変わらないのか。　










空回りする怒りの矛先は、底冷えさせる響きを以って、私へ向いた。　

いつものように、振り上げられる拳を視界の隅で見ていた。　
いつもと違うのは、もう誰も庇う必要がないことだろうか。　






頬に痛みが走る。　
この体がどうしようもなく生きていることを伝えるための感覚。　

腹を蹴られて、大きく咳き込む。　
あの子は死んでしまったのに。　

髪をきつく掴まれる。　
私はこうして、生きている。　



耐えきれず顔を顰めたのは。　
痛みそのものよりも、痛みが存在を証明するように思ったから。　



どうしようもなく、私は彼と同じだった。　
だから、声をひとつもあげなかった。　



顔を擡げさせられる。　
部屋の灯りが無遠慮に眩しくて、目を眇めて。　
次に備えようと、意識を空気に溶かす。　



けれど。我を手放しきるその前に。　
間も無く、彼の動きが不自然に鈍ったことに気づいた。　

歪んだ眼は、私の顔をじっと見据えていた。　










「……」　


「え、」　




瞬間、彼の瞳に浮かんでいたのは。　

──畏怖であったとしか、思えなくて。　






「笑ってなんか、」　





……言い訳なんかしなければ良かった。　
首の据わらないまま受けとめた暴力は、今でも時折痛む気がする。　

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教室での何気ないやりとりに、どきりとした。　






「え、あ、はは……。実はぼく、寒がりなんだよね……」　









今日の日付は、春と夏の真ん中を指していた。　

真夏になれば空調が仕事をする。　
故に、ケチな事務を持つ学生にとっては、　
今の時候が一番暑さを耐えなければいけない頃。　

この数ヶ月であれば、なんでもない風に躱すのに苦労はなかった。　
今までが、そうだったから。　

だから、油断をしていたのだ。　







「大丈夫、だって。……っ、あ、」　



この年仲良くなった彼にとっては。　
誰かの袖を捲ることなんて、何気ない仕草だったのかもしれない。　



晒されるものに、背筋が凍った。　

もし冗句が上手かったなら。　
お陰で涼しくなった、と。そう口遊めたかもしれない。　









「ご、っ、ごめん、……。気持ち、悪い、よね」　



できたばかりの、青い痣がある。　
忘れることもできない、焼かれた痕がある。　
明かされてはならないものが、晒されていた。　


ひゅ、と。呼吸が細くなる。　
じくじくと胸が切迫する。　


全てが手遅れだった。　
咄嗟に押し退けることもできず、為す術もない。　
だから、辛うじてできたのは、　
凍えた言い訳を吐いて、終わりを待つことだけだった。　





彼は瞬いて、私の引き攣った顔を見た。　

















「……」　

「……は、……？」　




彼は腕を見ても、顔を見ても。　
少し困って笑うだけだった。　
その瞳に揺らぎはない。　





いつかの日にも感じた違和感。　

体育にも出れれば良いんだけどなあ、なんて続けて慮る彼であっても。　
不慮のことに動じないことは有り得ない。　







何かがおかしいことに気づいたのは、それから。　

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鼻面を酷く殴られた日でも、道行く人に憐憫の目で見られることがなくなった。　　　

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泣き腫らした顔を晒しても、教師は何も言わなかった。　　　

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体育の授業に出ても、皆具合の心配をするだけで、　　　
誰もが痛々しい傷を気に掛けなかった。　　　

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初めは不慮で。
次第に、試験的に。

数度目の試行で、異常の性質を理解する。



私は、私の痛ましい在り方を誰にも気づかれなくなった。
声も、形も、私に関するなにもかもを。隠すことができた。






救いだと思った。







けれどそれを知る度に。
私の居場所に、理想の私が上書きされていくような感覚が増してくる。

彼の苦しみを、あの子の名残を。──本当の私を。
消し去りようもない現実を、理想の私が覆い隠す。



気づかないうちに、いき苦しくなっていく。




それが、“私”の異能だった。











大切なものが、二度と元に戻らない世界。
そこにひとり取り残されたのだと気づいたのは、それから。
そんな日だったから。今でもまだ、忘れることはできない。





酷く冷たい温度を受け容れた私に生まれたのは、大人になれない悪足掻きのような力。

私しか、“本当”を知り得ない。
私の他に私を理解してくれる人は、誰も残っていやしなかった。






──この世の何処かには、否定の世界があるという。
ああ、それじゃあ。私は。



私は、この世の全てに否定されたみたいだ。
そんな冗句を言おうと思って、やめた。






“作楽誘乃”はその異能を好ましいと思った。
優しいまぼろしは、今日という日に至るまで。私の眼には映らない。


己が身を箍として。
終わることもできないままで。

日常は、続いていた。

【これは、“作楽誘乃”の異能の話。】

▲	タヌキ 「…む？　なに？ この俺が、お師様だと？ いま確かに、そう言ったんだな？　間違いないな？」

	【お師様と呼ばれたタヌキは耳をピンと立て、そわそわと落ち着かない様子になった。】

	タヌキ 「そうか、そうか……。 俺がお師様なら、仕方が無いな。 そう呼ばれたからには、お前を蔑ろにするわけにはいかないな。」

	タヌキ 「何しろ弟子は間違いをするものであるし、師はそれを諭して許すものだからな。 さっきのお前の顔も、まるでバラバラ山の稜線のように眉が落ち込んでいたことだし。 もう十分に反省して、考えを改めたと言っても良いだろう。」

	タヌキ 「うん、うん。良いだろう。よぅく聞くが良い。 お前はマテバ流タヌキ忍道の一番弟子だ！ 四国流バラバラ狸忍道の秘奥義が一つ、泥遊びを授けてやろうじゃないか。」

	【タヌキはしゃなりと身体を揺らし、仰々しい声色でそう言った。 それから顔を横に向けて、前足をビッと前に突き出した。 どうやら、この足の先にある所を見ろ！　という意思表示であるようだ。】

	タヌキ 「あそこに見える、ごつごつした山が見えるか？ あの山を少し登った所にな、ちょうど良い具合の泥が積もった場所があるんだ。 周囲を断崖絶壁で囲まれてるから、何かに襲われる心配もない。」

	タヌキ 「そこまで登るのが少し大変だが、大変なのはそれだけだからな。 俺の一番弟子なら、間違いなく乗り越えられるはずだ。 俺はそう、信じているからな。」

	タヌキ 「と言うわけで、俺の話は以上だ。 どうやら、そろそろ戦いが始まるようだからな。 俺たち師弟も、張り切って参加しに行くこととするぞ。」

	タヌキ 「戦いが終わったら、あの山で落ち合うことにするぞ！ なに、道に迷っても迎えに行ってやるから心配はいらないぞ！ 何といっても、お前は俺の大事な大事な一番弟子だからな！」

	【それだけ言うとタヌキはぴょんと跳ねて。 尻尾をふわふわ揺らしながら、さっさと駆け出してしまうのだった。】

▲	リヨ 「っ、」 「ヨ、シ……、」

	リヨ 「ヨシ、　ほん、　とうに、っ、……ほんとうに……」 　同じ声が、同じかたちが。 　そこにあって、だから、それを信じて、安心して、甘い甘いその毒に溺れる。 「……あたし、は」

	リヨ 「……、怖い、あの街も、戦うのも、こわい、……こわいよ、本当はいますぐ目を瞑って、なにも見えなくなって、それでぜんぶ終わればいいって思ってる。 　……でも」

	リヨ 「トキが……トキがいるから。もうちょっとだけ、がんばってみる。 　それで、もしぜんぶだめだったら、あたしがこわくなって、ほんとうにだめになったら、そうして。……トキの足、引っ張りたくないから。……おねがい」

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