
目覚めてまずは布団を畳み、寝巻きから着替える。
ヤカンで湯を沸かし、仏壇の水、茶、米を取り替える。
弁当箱に昨晩の残りと卵焼きを詰めて、朝食をとる。
早朝の爽やかな空気の中、クィンは日課をこなす。
仏壇の米の取り替えは炊飯した際に行うが、
一人暮らしとなっては毎日米を炊くこともないため、空の飯器に触れず、茶湯器のみ中身を変える。
窓際に接するダンボールには一輪挿しの花瓶が置かれ、いまは菊の花が活けてある。
学生の一人暮らしで用意できる簡易的な祭壇だ。
そこに対の茶湯器を並べて手を合わせ黙祷することしばし。
この瞬間、大いなるものに属したような、荘厳な気持ちが胃の腑を満たして体に駆け巡る心地がする。
日々の感謝、先祖の慰霊、そして天を通して想いの向ける先に繋がることを手身近に祈り、立ち上がる。
実家にいた時分、仏壇の管理はクィンの仕事だった。
実母に習い簡易祭壇で行われたそれは、
彼女のために用意した簡易仏壇と位牌へ向けるようになり、その仏壇はもう実家にはない。
クィンが家を出る直前、祖父母を通して仏具店で処理した。位牌は母方の祖父母に預けた。
もしクィンが真に愚かであれば、どちらも処分することなく引き取りたいと素直に言えただろうか。
父と新しい母の双方の想いを考慮せず、わがままに振る舞えたならば、そもイバラシティに訪れなかったろう。
だからこれは栓なき話。
思考の泡沫に浮かばせることすら許してはならないものだ。
春休みだ。
同級生たちは部活動に精を出し、あるいはアルバイトしたり、
友人たちと遊んだり、もしくは一人暮らしのものは実家に帰省して過ごしているのだろう。
こたつに置かれたスマートフォンが着信音を鳴らし、点滅する。
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のろのろ起き上がり、スマホをクィンへ向ける。 また、ごろりと横になった。 |
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クィン 「ありがとう。……父か。」 |
父からのメールは用件だけで無駄な装飾がない。
それを物足りなく思う時分もあったが、今は変わらずいることに安堵を覚えている。
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『春休み 戻るか』 |
その文面を見た瞬間、ひゅっと肺から息が引き絞られた。
先に伝えない限り尋ねられる日が来ることはわかっていたのに、帰らないことを特別な理由なしに伝えられずにいた。
「息子さん、だいぶ大きいんですね。話に聞いたよりも、ええ……」
「はじめまして、こんばんは。お父さんとお付き合いさせていただいています。よろしくね」
「明るくていい子ですね。仲良くしてね」
彼女、父の再婚相手は、いい人だった。
学生といえど成人とそう変わりない外見にクィンに屈託のない笑顔を浮かべ受け入れようとした。
けれど彼女は瞳の奥に戸惑いを浮かべていた。
彼女の生来纏うのだろう柔らかな空気も次第にぴんと張り詰めて、
態度にはよそよそしさが隠れみえて、張りつけた笑顔で頬の筋肉は苦しげだ。
彼女を脅かす原因はクィンの他なかった。
子どもらしくあれなかったからだ、と思った。
クィンの外見は成人と変わらない。
異能の影響で中学生のうちにそうなるように変化して、それから変わらない。
身長も体重も、髪や爪の長さも。
外見は取り返しがつかない分、
せめて子どもらしく、無邪気に、
愚かで道化めいた振る舞いがもっとうまくできたならよかっただろうか。
対面の1週間後に届いた手紙は彼女と同じ苗字の、彼女の父母からだった。
宛先は父。
封の開かれたまま居間に置かれたそれを好奇心から盗み見た。
曰く、彼女とクィンの年齢が高すぎること、
男子高校生と同じ屋根の下に過ごすのはどうかと思うこと、
彼女は若いのでよい出会いが今後もあること。
読んだ瞬間、体がかっと熱くなって、同じくらい急に胸の中枢が冷えた。
それは真っ当で、子を想う親から出るにはややお節介であるけれど、
常識の範疇であったがクィンにはわからなかった。
持て余す感情の中で認識できたことは、自分が二人の邪魔をしていることと、
この世すべての不幸が自身に起因していて、
だから自身の存在を許さないという自傷めいた考えだった。
メールの返信文章を何度も打ち込んでは消す。
凡庸な発想力はさして変わりのない文章しか生み出さず、
その中の小さな言い回しが気にかかり、ああでもこうでもないと悩む。
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『今年は帰りません。 追伸。母の誕生日に到着するよう時間指定で郵送しました。内密にお願いします』 |
事実だけ述べた無機質な文章を送信する。
帰らない理由を尋ねられるかもしれないが、二人に会わせる顔がないなど書けるわけなかった。
三月の末日が誕生日の義母へのプレゼントはスカーフにした。
学生が背伸びすれば払える値段帯のものを百貨店で見繕ってもらった。
購入したときは確かに喜んでもらえると希望しかなかったのに、
帰路を進むにつれて、不快にさせるのではないか、
二人の仲に水を差すのではないかなどと不安がよぎり、そのために数日寝かしてしまった。
はじめからなかったことにできるのではないかと、
処分もよぎったときに手を伸ばしたのは子ども向けの電話相談ダイヤルだ。
対応してくれたスタッフはやさしくて、言葉が素直に口をついてでてきて、
『私は義母に嫌われているんだ』
だから、嘘をつけた。
義母がクィンはどう思っているか、クィンにはわからない。
対面したのは顔あわせとイバラシティに出立するときの二度。
どう扱うか考えあぐねる気持ちは読み取れても、敵意や疎ましく思う感情は受けなかった。
明確に嫌ってくれたならよかった。
それでも父が彼女を選ぶなら、父の選択をしこりなく受け入れられた。
自分が譲った、嫌われないための選択をとった、だからいいことをしたなんておごがましい思いを抱きたくなかった。
自分勝手な泡沫は水面に浮かぶ前にかき混ぜられた。
クィンは己の嘘に気づかない。
彼にとって真実で、白日にでれば行き違いで済むその裏にある身勝手な思いは、だれも知らない。