
グランドピアノが鎮座する防音室の中に一つ、小さな本棚がある。
そこには教本やピアノスコアが並んでいて、練習のときには今の自分に合った難易度のものを先生が手渡してくれるのが常の事。
前に渡された本は大体マスターできたが、今は部屋でどうやら先生が仕事をしているようで尋ねるのは後回しにしていた。
代わりに自分でも何かないかなと手当たり次第棚の中身を適当に捲っていて、気付く。
「……これ」
市販の教本に紛れて、誰かの五線帳が一冊。色褪せた表紙には大きく、拙い筆跡で5と記されていた。
Ⅵ. 遠き日の旋律
ピアノ椅子に腰掛けて、五線帳のページをペラペラと捲った。
印刷された楽譜の音符を奏でることしかしてこなかったおれにとって、手書きで記譜された楽譜というのは物珍しくてついまじまじと眺めてしまう。
清書しているものではないからだろうか。長さは色々だけれども断片的なメロディーが、けれどいくつもそこには記されていた。
少々難易度が高い譜面もあったが、今の自分でも弾けそうなメロディーを試しに鍵盤で叩いてみると妙に耳に心地良い。
今まで聴いたことのない、誰かが作った誰かの音。
のめり込むようにしてそれを眺めてたまに弾いていれば、不意に白い指先が五線譜をなぞる。
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「……あ、」 |
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「────」 |
目の前に居たのはやっぱり彼女だった。
この前ここで泣かせてしまった記憶を思い出して焦りが胸を覆ったが、彼女は特に何も気にする様子はなく書かれていた音符に微笑んだ。
遠い昔を、懐かしむみたいに。
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「……あなたが書いたんですか?」 |
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「 」 |
尋ねると彼女は笑みを深めて、ページを捲る動作をした。
何だろうと疑問に思いながらも真似をしてページを捲って、最後まで捲ればようやく気が付く。
いつき、と。
字を書けるようになったばかりの子供が綴ったような文字が右端に並んでいた。
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「なんだ……先生が書いたんだ。先生、曲も作ってたんですね」 |
名前の上に日付が示されている。今から、20年ほど前の。
おれはまだ産まれていないし、先生は多分逆算したら10歳か11歳か、そのぐらいだろうか。
(…………意外だな)
表紙や音符の筆跡からして、もう少し幼い子供が書いたのだと思っていた。
それが10近い年頃の先生が記したものだというのが、少し。
(名前ぐらい、漢字で書けそうだけど)
時折音符でなくメモとして記されている文字も、全部平仮名だ。その上たまに間違っている。平仮名を。
ちなみに今の先生の筆跡はといえば読みやすくて綺麗で整っているし、漢字だってそりゃもちろん、頭が良いから大体何でも読めるし書けるし。あと他の言語にも嗜みがある。素直に羨ましい頭だ。
(文字は間違ってても、記譜の間違いはなさそうだからそれも不思議──)
と、そこまで思考を及ばせたところでがちゃりと扉が開いた。
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「づ~が~れ~だ~……文献漁るのめんどくさいね本当に。 やになっちゃう、欲しい情報すぐに出てきたらいいのに」 |
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「お疲れ様です。終わったんですか?」 |
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「終わった終わった、専門医資格の継続めんどくさいな、やめようかなー」 |
珍しく疲れた表情で溜息を吐いてこちらまで歩んできた先生に、彼女はすっと身を引いた。
もちろんそんな様子など気付く筈もなく、先生は「何してるの」なんておれの手元を覗き込んで。
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「…………げ」 |
これもまた珍しく、顔を引き攣らせた。
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「そんなのまだあったの…………」 |
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「斎さん、ピアノ弾くだけじゃなくて作曲してたんですね、小さい頃から」 |
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「いや……、…………しくじったな、全部捨てたと思ったのに」 |
目も向けたくないのか早々に逸れていった視線を追いかける、苦虫を噛み潰したみたいな顔。
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「他はもうないんですか?」 |
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「そんなの捨てた捨てた、それも捨てるよ、はい貸して」 |
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「え、やだ」 |
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「みことぉ……?」 |
奪われそうになったところをぎゅっと抱き締めて死守すれば、困ったように先生は俺の名前を呼んだ。
だって、この家には思い出がとても少ない。おれが来るまでの、先生がここで過ごしていた思い出。
その欠片がまだ残っていたとするなら、捨てる理由なんてこれっぽっちも無い。
元の家では両親もおれも思い出を全部大切に取っていた。だからやっぱり大事にしたいのだ、こういうもの。
それに。
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「おれ、斎さんが作ったメロディ好きなので。斎さんがいらないなら、おれが貰います」 |
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「いらないっていうか……私はそれ、とっても捨てたいんだけどなー」 |
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「やだ」 |
もう一度強く突っぱねれば先生は数秒迷った後、前髪を掻き揚げて諦めたように息を吐く。
仕方ないなあ、と漏れる声。
捨てるのが苦手なこの人が捨てたいんだから、よっぽどのものなんだろうとは思うけれど。
押して勝ったことには違いない。心の中でガッツポーズをしながら、ふと疑問に思っていたことを尋ねてみた。
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「子供の頃、字を書くのが苦手だったんですか?」 |
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「……まあそんな感じ」 |
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「意外です。昔からなんでもできるんだと思ってた、苦手なこともあったんですね」 |
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「失礼だな~、誰だって最初はうまくいかないでしょ、私だって子供のときは子供だよ」 |
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「ふーん……にしても斎さん、音楽が本当に好きだったんですね」 |
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「そうだったかもね~」 |
返答は曖昧で、だけど好きじゃないわけないだろう。
今でも音楽はよく聴いているし、おれに教えるときは楽しそうだし、それにこれ以外にもノートがあったぐらいなのだから。
そう考えて、つい、踏み込みそうになる。おれの知らない向こう側。
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「……ねえ、斎さんって、」 |
──本当は医者じゃなくって、他に夢があったんじゃないかと。
踏み込みそうになって、でも、すぐに口を噤んだ。
尋ねようとしたけれど視界の端、彼女がさみしそうに笑って首を横に振っていたから。
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「……命?」 |
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「……ううん、なんでもないです。 ああそうだ、終わったならスーパー連れて行ってください。晩御飯の材料買わなきゃ」 |
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「いいよ、私も乾燥剤買いたいしちょっと遠出しよ、ドライブ」 |
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「仕事で使うんですか?」 |
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「ドライフラワー作るの、命も一緒に作ろ~、部屋の花弁でやってもいいよ」 |
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「唐突ですね……あれではやりません、触ったら怒りますからね」 |
笑って先生が手を差し出してくれたから、おれは何もなかったみたいにその手を取った。
また変に泣かせてしまったら困るし、何より彼女にそんな態度を取られてしまえば、どうしたって問いかけることを躊躇してしまったから。
まあ、いつか。そんな躊躇も覚えなくなるぐらい度胸が付いたら、もう一度聞いてみようかななんて。
あるのかないのかよくわからない未来に思いを馳せて、おれは先生と一緒に部屋を後にした。