
莉稲はよく裏切ってくる。これは俺のひねくれた物言いで、単に逆恨みのようなものなのだがよく裏切ってくる。
「りいちゃんはわーくんの妹じゃないの?」
6歳頃の自分の発言らしい。当時の俺には衝撃の事実だった。母親曰くその後ふさぎ込むようにふて寝していたという。
その詳細についてはすっかり覚えがない(ついでに小学校上がるひとつ前にその一人称はどうかと思う)のだが、勘違いするにもわけがあった。俺達の母親は親友同士で、両親が共働きだった莉稲は昔からよく俺の家に預けられていたのだ。
当然、毎日ではなかったし莉稲の親も迎えに来るのだが、親ごとうちに泊まる日もあれば親に「お兄ちゃんなんだから」で我慢を強いられることもあったし、殆ど家族みたいなものだったから幼少時の俺は然程気に留めていなかった。
だが突如として訪れた現実を前に、俺の常識は容易く崩されることとなる。曲がりなりに妹だと思って多少なりともお兄ちゃんしようと努力していたのに、そういうことをする筋合いはないのだと突きつけられ大変ショックを受けたのだ。
とはいえ交友関係は続く。一度現実を受け入れれば俺もけろりとしたものだった。よその家の人間ということは理解の上で面倒を見てやるようになる。
これが一度目の裏切り。
時は流れて小学生時代。俺が小五で彼女が小一。莉稲は支援学校に通っていたため学び舎を同じくすることはなかったが、相変わらず俺の家で預かる日は多かった。
放課後に彼女を迎えに行き、一緒に家に帰る。そのルーチンがまあまあ常習化していた。
「腹、減ったな」
その日も莉稲はうちに居て、夕飯時には少し早く、親は外出していてまだ帰っていない時のこと。
何気なく小腹が空いたな、くらいのニュアンスで俺は言った。莉稲も「そうだねえ」とのんびり同意したので、俺は間食を取ることにした。
「りいちゃんなんか食べる? 適当におやつ出すけど。ロールケーキとか」
「ロールケーキ! おいしいよねえ、ロール、ロール……そういえばこの間ね、ロールキャベツが美味しかったんだあ。すごいね、ロールキャベツ。わーくんは食べもの、なにが好き?」
ふわふわしてるくせ急直下して着地する話の流れ。食の好みを聞かれて弁当のおかずが浮かんだ。
「……卵焼き?」
好きの度合いも特別強くはない、「どちらかと言えばまあ好き」という程度のおかず。ただ、他に思いつかなかったのでそのまま答えとして口に出した。
すると彼女はにっこり笑って言うのだ。
「そっかあ。じゃあ、作ってみるね」
簡単に言って彼女は立ち上がった。すっと。杖や支えが無ければまともに立てないはずの脚で。
度肝を抜かれたなんてものではない。不自由なはずの身体はの羽ように軽やかで、冷蔵庫を開けるわ調理器具や踏み台を用意するわ、使ったこともないうちの台所を掌握する一連の動作は異常と言うほか無かった。
じゅわじゅわと油と卵液が爆ぜる音も香しい卵の焼ける匂いも全く意識の中に入らない。
「できたよ、わーくん! めしあがれ!」
難なく作り終えて俺の前に卵焼きの乗った皿が置かれた。開いた口が塞がらないなんてものではない。
「……なに、いまの。そんなことできたの」
遅れて尋ねると彼女は「なんかできる気がしたから」と屈託なく笑った。
恐る恐る食べてみるとこれがまた、悔しいことに美味しくて。俺の「まあまあ好き」が「好き」に変えられた瞬間だった。
これが、彼女から二度目の大きな裏切りを受けた瞬間。
俺は周囲と違って、異能がまだ発現していなかった。俺より頼りないはずの彼女は、知らぬ間にどんどん前を進んで行く。
これを裏切りと呼ぶにはあまりに幼稚だろう。俺は莉稲を弱者として侮っていたのだから。きっと彼女はなにも出来ないだろうと、意地の悪い浅はかな期待を寄せてそれが潰えただけ。
そうして不意に見えた自分の拙さに狼狽しているだけ。
だとしても。俺が助けになってやるのだとどこかで思っていた。その感情が行き場を無くして、俺では無理だと言われているようで。
こうやって、何食わぬ顔で彼女は俺を裏切ってくる。
その後──三度目の時も。
ずっと先の道から、彼女はこちらを振り返るのだ。
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莉稲 「……迷ったんだけどね。私、まだわーくんのこと探してみるよ」 |
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うさ子 「え!?」 |
彼女を安全地で待機させることも、どうやら思い通りにはいかなそうだった。
莉稲は自分の足で俺を探し回ると言って聞かなかったのである。
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莉稲 「大丈夫! 今は普段よりずっと動けるし…… わーくんだったらね、うさ子ちゃんをひとりで行かせないと思うんだ」 |
普段よりずっと動けるという点において嘘は無い。自立歩行も叶う上に、道中拾ったフライパンで立ちはだかる原生生物を薙ぎ倒す手腕は見事なものだった。
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うさ子 「いやそンな……ひとりじゃないですよう! 鰐淵さんだっているし、他のみんなも手伝ってくれますから!」 |
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莉稲 「でも、みんな子どもでしょう?」 |
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うさ子 「えッ? あー……と、どうだろう……?」 |
俺達が協力してもらっているのは学生二人、動物(?)一匹。莉稲から見ればガキだらけの頼りない集団に見えるのかもしれない。それだって臆病者の俺よりは逞しくて強かであると思える。
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莉稲 「わーくんは、子どもには味方してくれるから。わたしもそうしたいなあって」 |
そう語る彼女に、そんなに立派なものじゃないと因幡うさ子が拒むことはできない。
汐見莉稲から見た卯島渉は、いつの間にやら子どもの味方になっていた。
「それにわーくんは、わたしが守ってあげないと」
「……」
この彼女を前にして、そういうところが俺の想定を裏切るのだ、などとどうして言えようか。
俺が守ってやろうとしていた彼女はそんなことされるつもりなどまったくなく、寧ろ守る側でいるつもりだったのだから。