
244の日記、909の日記と続いてたり繋がってたりしています。
「んだよ、お前……」
獣の大きな舌が頬に押し付けられ、フェデルタは思わず眉をしかめて視線を向けた。しかし、大きな翠の瞳はこちらに文句を言わせてはくれない。
「……ったく」
それこそ、彼なりの慰めなのかもしれない。頬を軽く拭いながらそんな風に受け止める事にする。
自然とため息をこぼしつつ手が煙草に延びかけたところで、獣の耳が立ち上がり、視線が辺りを伺う。
フェデルタは煙草をポケットに仕舞うと、何事かと視線を辺りに向けた。そういえば、そろそろ他のメンバーが戻ってくる頃だろうか。
「……」
フェデルタの視線の先に近付いてくる人影がある。それは、吹く風にすら明確な怒りを乗せてやってきた。
スズヒコと、呼び掛けるのすら躊躇するそれは怒りを乗せたままこちらを睨み付けてきた。
「ふざけたことしやがって!おかげでこっちは散々な目に遭ってんだ」
「……は? 何の事だよ」
曖昧なただ怒りだけを浴びせてくるスズヒコの叫びにフェデルタは眉根を深く寄せた。
その様子にスズヒコは舌打ちを隠しもせずにひとつ打つと、話になら無いとばかりに今度は獣に食って掛かる。
「おい、俺……もう二度と俺に、煙草の味を思い出させるな!!」
その言葉でフェデルタにも少しは合点がいった。獣とスズヒコは同一の存在であり、感覚を共有しているという事は聞いている。
先程の煙草も愚痴も、恐らくはスズヒコに届いており、それが今怒りを振り撒いている理由のひとつなのだろう。
『煙草は苦手でね……』
ふと、スズヒコが苦笑して呟く姿を思い出した。
彼と知り合ってすぐにその話は聞いた筈で、だから彼の前では遠慮したり距離を取ったりなどするように気を付けていた。
いつだったか、煙草を吸う相手とはいい思い出が無い……という話も聞いた気がする。
「フェデルタ」
名前を呼ぶ声にわかっているのか、と言外の圧がかかる。冷静さの欠片もない、煮えたぎる怒りを湛えた瞳がフェデルタを射貫く。
「臭いんだよ、いつもいつも吸いやがって……それは何かを解決するのか!?」
「……」
フェデルタは視線をそらして地面を見る。
怒鳴り付けるスズヒコの顔は、酷く醜く歪んで見えて正視するのに耐えなかった。
(……今更だな)
確かに今のフェデルタは煙草を吸う頻度は多いし、そこまで回りを気にしてもいない。
ただ、それは今までにも程度は違えどあった事でありスズヒコはそれを知っているし、許容してくれた過去もある。
それに、この煙草がただの嗜好品ではない事だって、知っている筈だ。それなのに。
「聞いてんの? ねえ?」
黙っている様子にスズヒコは苛立ちを隠さずに再度問いかける。しかし、それにもフェデルタが何かを返すことはなかった。
だんまりを決め込む姿にスズヒコは大袈裟に溜め息を吐くと一気に捲し立てた。
「いい大人がさ、なんなの?」
「そもそも、勝手に一緒に行くことを決めたのなら、お前が何とかするべきじゃないの?どうして俺が仲介役みたいになってるの?」
「お前の勝手で、俺は得体の知れないやつらにいい顔してなきゃいけなくて、余計な労力が増えてるんだよ。お坊ちゃんの方は我儘だし、あの従者は何か隠しているし、頭が石みたいに硬いし」
「仲良くキャンプだなんだってしてる時間、俺たちにないのわかってるよね?」
「……とにかく、“ご主人様”に吸わせるわけにはいかないから、自制して」
強い否定の言葉。
強い言葉を使うところを知らない訳ではない。けれど、それは彼が敵だと認識した相手に対してであり、味方――少なくとも自分はそう思っていた――に、かけられた所はほぼ知らない。
『……煙草の臭いが好きだとは思わないけど、たまには悪くないかもね』
『趣味嗜好はそれぞれだし、そこまで口を挟むつもりはないかな』
『遠慮しなくてすむようにしたいだろ? お互いさ』
フェデルタは頭を押さえた。ワールドスワップの影響なのか、それとも現実逃避のひとつなのか、自分の過去の記憶が度々甦る。
記憶にあるスズヒコと、今目の前にいる彼は本当に同じなのだろうか。
「……スズヒコ、俺は」
「それくらいできるでしょ?」
フェデルタが口を開いた所にスズヒコは言葉を被せてきた。そもそも対話をするつもりもなかったのだろう。
無言の空間に、先程まで大人しかった獣の唸り声が聞こえる。すぐ側にいるはずなのに、どこか遠くに感じた。
スズヒコの変貌は理解していた筈なのに、目の前に突き付けられると呆然としてしまう。
最初にあった激しい怒りこそ消えはしたが、今のスズヒコにとっての自分は一体何なのだろうか?
「スズヒコ」
立ち去ろうと踵を返したスズヒコに、フェデルタは震えた声で呼び掛けた。
無言でスズヒコがわずかに振り返る。冷たい視線だけが向いた。
「出来ればアンタにこんな事、言いたくなかった」
ちり、と火の粉が舞う。押さえきれなかった感情がちりちりと溢れ出る。
「俺もう、信じられねえよ。アンタの……お前の事」
わんわんと声をあげて泣いてしまいたかった。こんな事を言ってしまった事にも、こんな事を言う事態を作ってしまった事にも。
ただ、ただ、静かに最期を迎えたかっただけなのに。
「そんなに他人を否定して、それでお前に何になるんだよ。それともあれか? すっかり"否定の世界"に染まりきっちまったか?」
人を嘲笑っているのか、自分を嘲笑っているのかわからない、そんな顔をしている。全てが馬鹿馬鹿しく感じられる。
くつくつと喉の奥で嘲笑って、肩を揺らして、そのまま俯いた。
頭の上から言葉が投げかけられて、そして去って行く気配がする。
"今のアンタは、獣と何もかわりゃしない。"
わずかに顔をあげて去って行く背中を見ながら浮かんだ言葉。
それだけは認めたくなくて、飲み込んだ。
紙に何かを記録するなんて、初めてだと思う。記録する事は思考の整理に役立つと聞いた気がするから記録する事にする。
自分が普段使ってるものより吉野俊彦の使っている文字の方が今だとよっぽど記憶にあるので、これを利用することにした。どうせあとで見返す事もない。これが終わればもう全部最後だから。
吉野俊彦の記憶に悩まされていたが、奴の記憶を利用する事で俺は自分を保てる可能性に気付いた。吉野俊彦である俺と、そうではない俺を分けて、吉野俊彦の部分を利用する。これでうまくいけば、このノートに書くのはこれで終わる。正直もう手が痛いからこんなのしょっちゅうやりたくない。
スズヒコは、どうしたらいいんだろうか。あまりにも変わってしまったあの人を俺は……
(何かを書こうとしてうまくいかずにぐしゃぐしゃに線が引かれて消されている)
あの主従。吉野俊彦の記憶だと、親戚同士みたいな関係で主従というのを隠してた。書くしているという事は都合が悪いと言うことだ。もしかしたら、イバラシティに元々いた訳じゃないかもしれない。もしそうなら、どうやって?
人に何かを言うのは苦手だ。ましてやあの人と言い合うなんて。けど、どうにかしないといけない。あの人自身が嫌っていた筈の事をあの人がしてるのは見たくない。
「……」
"記録する事は成功の整理に役に立つ"。
そんななんとなくの記憶で試す事にはしたものの、果たしてこれが思考の整理に役立ったのかはわからない。溜息ひとつ吐いて本を閉じると本は炎に包まれて消えていった。残ったペンを手慰みにくるくると回してからコートのポケットに戻した。
グノウが投げて寄越したこのペンの描き心地は悪くなかった。グノウは貸し借りなどしたくない、と言ったが、ペンをもらったという事実はフェデルタの中でひとつの貸しになっている。そもそも期待もせずに言った言葉だが、借りっぱなしは性に合わないのでどこかで返さなければならないだろう。
(それにしても……)
グノウにとってどういう心境の変化があったのか、それとも単に気紛れなのか――否、気紛れを起こすようなタイプとは思えない。ひとつだけわかっているのは、恐らくあの男にも余裕が無いという事なのだろう。この世界で余裕がある者がいるのかどうかもわからないが。
煙草を吸おうとして、手を止めた。スズヒコの言葉に従ったつもりはないが、彼の言葉のせいなのは間違いない。
「……くそっ」
悪態ついて、止まる手を無理矢理動かして煙草を咥える。イラついた状態で咥えたそれは、直ぐ様燃え尽き灰になった。