決定的な一言が浴びせられたときのことを覚えている。
その日は別に代わり映えもしない曇りの日で、俺に対するあらゆる反応はいつものものだった。無視。意図的な回避行動。軽蔑の視線。それら全てに慣れてしまっていた。俗に言う“いじめ”というカテゴリ、大人であるが故に性質の悪さが子供の比ではなく、意識の忌避から産まれるものではない、意図的な排除だ。
けれども、俺は退くわけには行かなかった。まだ独り立ちするには早い年齢の娘を一人抱えていて、故郷には妻と下の娘を残していた。俺が退くと言うことは、少なからず家庭の崩壊を意味する。だから退くわけにはいかず、初めから退路はなかった。
事の始まりは、“俺が界境の向こうの人間である”ということ唯一で、要するに子供と何の変わりもなかったのである。一人だけ存在していた異国(異世界、という方がより正しいのかもしれない)の人間を、自分たちと違うから、忌避した。直接手を下すわけでもなく、真綿で首を絞めるように、外堀を埋め、柵を立て区別し、差別し、そして俺は追いやられた。
初めが運が良かっただけと言えば、そうかもしれない。研究所勤めになったとき、初めて配属された研究室は『変人の集団』『正気のないやつらの掃き溜め』などと呼ばれていた。
要するに、人間の種類なんてどうでもいい、研究、研鑽、探究、探求――その力になるのなら何でもいい、誰でもいい。それは異端の思考であったが、確かにそこでは受け入れられていた。結果こそが全ての世界、人種ごときでどうこうするのがおかしいのだ、という話を聞かされたことがあるわけではないが、少なくとも室長はそういう考えでいたようで、俺の採用理由は“優秀だから”。俺のことを戦力として数えてくれていたのと、拾ってくれたことについては、本当に頭が上がらない――もうとっくに亡くなっているだろう。
時に、変わり者を追い出せないのには理由がある。例えば、それが年長者だった場合。例えば、それと仲良くしている上の者がいる場合。俺のいた研究室の室長は、両方に属する人間で、それ故に、俺はある程度の安寧を得ることが出来て、そしてその安寧は、楔を失った瞬間に崩れ落ちることが決まった。
俺は戦うしかなかった。
案外慣れるものだなあと思っていても、一人だけ書類を用意されなかったり、茶菓子が回ってこなかったり、廃液処理の当番や試験管洗いがやたらと回されてきたり、明確に追い込まれ、ひとつの方向へ向かうよう、誘導されているのを感じていた。
心を殺せ。人だと思われていないのなら、己も相手を人だと思うな。不運か、それとも幸運か、俺は心の殺し方を幼い頃から知っていた。冷たい人だと言われても、それが俺に対して取っている態度そのままで、俺はそれを反射しているに過ぎない。人として扱われないのなら、同じように人として扱われない覚悟はするべきで、それが足りない“人”に、直接詰め寄られたこともあった。俺は言う。
『それ、あなたのやってることですよね?』
時は巡る。研究室の異動がある。辞令が出た日、所長室へと呼ばれた。
当時の研究所長は喫煙者だった。一歩立ち入っただけで鼻の奥をつつく、ピリジンとアセトアルデヒドのにおい。白かった壁紙がうっすらと黄ばみかけていた。
『咲良乃さんさあ』
小さく返事をした。
『いつまでここにいるつもりなんです?』
分かっていた。それをよく分かっていたはずだった。
流水が少しずつ岩石を削り取るように、俺の心もまた、そうだった。加熱と冷却という負荷を繰り返し続けたガラス容器が唐突に壊れるように、高いところから落とされたものが位置エネルギーで破壊されるように。
組み立てたものを崩すのはあっという間で、それは信頼も同様で、元からないと思っていたものが、確かに崩れる音がした。俺は自分の職場に、“自分にこれ以上の悪いことはしないだろう”という信頼を、あれだけ同僚たちだったものから冷たくされてなお、持ってしまっていたのだ。どうして?こんな無法地帯で、律する何かを信じていたのか?
俺は選ばなければならなかった。責任を持たねばならなかった。家族に、娘に、そして己に。
逃げる。どうやって?どこへ?逃げた先でどうする?娘はついてきてくれるのか?それ以外の手段は?誰かに預ける?誰かって誰に?
思考が試行される渦。堂々巡りでどこへも辿り着けない中で、俺は確かに喧嘩を売ったのを覚えている。
『追い出されるまではいますけど』
それが地獄の始まりだった。地獄で一人、ペンを取り試験管を取りピペットを取り、孤立無援にも等しい戦いの始まりだった。
俺が疎まれていたのには、もう一つ理由がある。世界情勢だ。界境を隔てた二つの“世界”は、いよいよ以て混ざり合おうとしていた。それをよしとするもの、しないもの、その争いが始まった。あることないことを互いに吹き込み合い、疑心暗鬼が世界中に渦巻く。そして、繋がっているはずの世界は、断裂する。
境界渡りが制限され、俺の逃げ場(――地元に戻る気は欠片もなかったが)は本格的になくなっていく。異界の人というだけでこうも火の手に晒されるのだから、混ざり血の子供はどうなるのだろう。恐ろしかった。俺はいい。俺は別にいい。好き好んでやっている。子供は、子供には、選択肢がない。では、俺のできる最善はなんだろう。そう思った時、自然と全ては定まった。
俺は、俺の判断が正しかったと思っている。そう思わなければ、示しがつかないからだ。俺は決して気が狂ったわけではなく、そうすることが最適解だと導き出して、あのような行動を取ったのだ。
だから俺は、最後まで誇り高くありたくて、あの救いの手を跳ね除けた。それが本当に誇り高くと言えるものだったかはともかく、俺は最期まで、自分を貫き通したかったのだ。
俺という人間が、生まれ、育ち、学び、働き、萎れ、そして焼け落ちていくまで。
轟々と燃える炎の中でも、酸素量が減っていき二酸化炭素あるいは一酸化炭素が満ちていく中でも、俺はずっと未来を見ていた。俺の死んだ後。二人の娘が歩いていくだろう未来を。
あの瞬間、俺は確かに無敵の人だった。何も怖くはなかった。ひとつだけ恐ろしかったのは、救いの手を取ってしまいそうな弱さだった。
俺はできるなら、できる限り抗いたい。抗って、抗って、徹底的に抗戦し、鉄底まで沈んでも、極限環境でも、生物は生きることができる。適者生存という一言ですべてが終わる。
だから俺は戦い続けるし、俺の戦場は俺の中にしかない。俺の戦いを否定されたくないから、俺の戦場に、俺以外はいなくていい。戦わなくていいんだと言われたその瞬間に、全てが崩れてしまいそうで怖いのだ。
俺は、咲良乃スズヒコという名前で、当時39歳で、職場である研究所に最効率で火が回るよう可燃性ガスや薬品を配置した上で、突入が最も遅くなるだろう場所から火を放った。
火が。火が、燃えている。
ピリジン、アセトアルデヒド、ずんと重い有毒物の臭い、口の中に苦く広がる刺激物の感触味覚味蕾が激しく不快を伝えて、
「うっ、ぐ、おえぇっ……!!」
口の中に熱と不快な味が広がって、ベースキャンプのマーケットの影で吐き戻した。
4時間分。胃の中身はなくなるかなくならないかの瀬戸際だ。固形と液体の間くらいの、何を食べたのか判別できない消化物が道端に垂れた。
犯人はすぐに分かった。“俺”だ。それ以外と、感覚の共有なんてものは、行われていない。吸いたての煙草のどうしようもない味を水で濯いで、走り出した。
獣はそれを見下ろしていた。
共に旅をしている男。いつからそうだったのかはもはや朧げで。煙に巻かれたように思い出せない。
視線が合う。不思議そうな顔をしているのが、よく見える。
「……スズヒコはいねえのか」
いない。
己は咲良乃スズヒコではあるが、そうではない。この(恐らく二つの世界の)狭間でだけ、意思を持った何者でもない存在。ただの能力としての“鈴のなる夢”。
『鈴のなる夢』は所謂通り名でもあるが、今はただの能力だ。ただの能力、というには、意思を持ち、自立歩行をする己は、異質な存在だろう。
有り体に言えば“やることがない”己は、そっとその場に伏せた。巨体は役に立つときと、立たない時がある。
「……何だお前、慰めにでも来たのかよ」
そんなつもりはさらさらなかった。一言で言えば“暇”だったからだ。
けれども、己の中には確かな色眼鏡があった。この男がしゃんとしていないと、何となく落ち着かない。それは己が咲良乃スズヒコであることを、実に分かりやすく現していた。
「……こんなはずじゃなかった。もっとうまくやるつもりだった。少なくとも、このハザマとやらに来たら、少しは上手くいくと思ったんだ」
己はその言葉を聞いても、何とも思わない。己にとってこのハザマとやらは、最も存在しやすく、居心地のいいところだった。
けれども、どこかで、己ではない何かが言うのだ。その言葉に耳を傾けておくべきだと。
「……俺自身が揺らいでる。それはずっと、感じてた……これ以上死ねば、炎に喰われちまうって。……そんな所によお、俺よりもはっきりと意思と形を持った男の記憶が来るんだ」
己に、“イバラシティ”とやらの形は存在していない。
ただ、この男と己の主が、一つの家庭に入り、そして兄弟として存在していることは知っていた。俺の記憶は己の記憶であり、己はそれを他人事のように見ている。実際に、今はまだ、他人事だ。
「……いつか、あいつに喰われちまいそうで正直怖い。俺の身体の筈なのに」
怯えている。この男は、怯えている。
その炎が消えてなくなることに怯えている。
「我ながら情けねえよな。いっそ、俺も意地はるのやめちまおうか」
己は首を動かした。己は今、確かに聞き捨てならないと思ったのだ。
己が主と並び立つのであれば、そのようになってもらっては困るからだ。故に己は、それを睨めつけるしかなかった。
「……わかってる。わかってるよ」
分かれば良い。己は楔であり、鎹であり、重石であり、そして枷だ。永遠に長き時を引き止め続けてきた枷たる己は、だからこそこのように巨大に存在しているのだろう。
ずっと背負い続けてきたもの。怨嗟。愛情。怒り。悲しみ。微かな楽しさ。それが己を構成している。そして己の力として、この世界では発露する。
「……情けねえな、俺」
要するに、己は感情の機微には聡く、それ故己はこの男の思惑が、ある程度分かるのだ。
情けなく思っている。即ちそれはマイナスの感情で、今所持されていて良いものとは思えない。己はこの環境を良く思っていたが、俺はそうではなさそうだし、そうなるとこの男もそうだ。
己には複雑な言葉を発することのできる声帯はない。だから、これが最適解だと思ったのだ。
「うおっ」
人間は触れ合いである程度のストレス発散をする。己は俺であり、しかして俺ではない存在だが、それでもないよりはマシになるだろう。
己の頭に堂々と存在している、普段は敵に突き立てる角が邪魔で、鬱陶しい。故に己は、爪の代わりに舌を伸ばした。
巨大な獣の舌がフェデルタ・アートルムの頬を舐め上げ、それから右目と視線が合う。
何か文句でもあるか、と見つめてくる翠の目に、何も言えることはなかった。不意に大きな耳がピンと立ち、きょろきょろと辺りを見渡す。ここはベースキャンプだから、出向かなければ敵はいない。
「んだよ、お前……」
殺意が風となって向かってくるようだった。
(ENo165の日記に続きます)