背の高い青年が、一人の少女を連れて――というには、随分と距離を取って、けれども彼らは確実に同じ行き先に歩いている。
金色の髪の中にはらはらと揺れる深紅を、少女の蒼い目がじっと見上げていた。
西村一騎――を騙る怪異、異端の者《哀歌の行進》は、創峰大学の周辺地域を適当にうろついていた。だが、それも終わりだと思った。元より“これ”が、自分より神に近しいものであることは、知っていたはずだ。己はもともと“西村一騎”だったもので、それがほんの僅かな可能性を勝ち取り、力を得、具現化し、数箇所を彷徨って、釣り餌に釣られて今に至る。釣られない、と言う選択はあったはずだった。それを選ぶことは自由意志だったはずだ。来てしまった以上、好奇心に抗えなかった、ということでしかない。
「クレープ。期間限定のやつ、2つだ」
この辺りは賑わいすぎている。学徒の集う街、そこに必然的に集まってくる学徒のためのもの、いつどこに行っても、疑いの視線など向けられる暇はなかった。高校生たちの通学を見送り、適当にクレープ屋で物を頼んでも、少女の特異さに誰も目を向けない。
ここは異能の街。少し人型から外れているくらいでは、何とも思われない、人種の坩堝。
「ミカ?食べるだろ?」
「食べるけれど、私に餌付けは通用しない。私は私の心に従って動くから」
諦めたようなため息。ミカ、と呼ばれた少女は、何の躊躇いもなくクレープの追加トッピングを要求した。
「……お前」
「払えないわけじゃないでしょう。私が今すぐあなたを焼いてもいいのなら、それでもいいけれど……」
ゆらりと傾けられた首に応じるように、長いポニーテールと、本来耳のある位置から生えている、鳥の羽の形状を取っているもの。肩を伸ばすようにそれが伸ばされ、ぴたりと畳まれると、改めて少女は男の方を見た。
「でも、それ、都合が悪いんでしょう?」
「クソ。これだから善寄りのやつは」
「寄りじゃないわ。私は優しいのよ、とても」
男は人間ではなく、そしてこの少女も人間ではない。人間をベースにしている男と違って、少女は根本から違う。一言で言うのなら、神だ。
何者でもなく、ただ混沌の上に存在する。それは燃える炎として顕現し、破壊と恵みを等しく与えていく。そのように祀り上げられていた、紛れもない神“だった”ものだ。
御火籠神社は、もはや神社の体を成していない神社だった。社は廃屋の如く、立ち入るものは誰一人としてない、寂れた場所だ。寂れた場所になってしまった。古のときに起こった災害で全てが押し流され、民草と土着の信仰を一気に失った哀れな八百万の神の一柱、それがこの【混沌たる御火籠の炎】だ。秩序の炎のみがひたすらに祀り上げられ、忘れられつつあった神は、その名のとおりに気まぐれな存在だった。
初めにしたことは、ひとつの可能性との接触だった。足を踏み外しかけていた可能性を気まぐれで救い、そのまま力を喪失した。次にしたことは、眷属を従えて、様々な地を巡ることだった。途中で見知らぬ庭園に立ち寄り、曰く『花を沢山食べてきた』。
【哀歌の行進】は知っている。何故なら、己ももとはその可能性のひとつで、【透翅流星飛行】に誑かされた存在だからだ。故に目をつけられ、そして追い回されている。靡いてしまったほう、靡かなかったほう、神に救われたほう、神に救われなかったほう。
それらが同時に存在している。
「六割くらい使ったんじゃなかったのか?」
「使った分、取り戻した。私の眷属はよく働いてくれるし、ちょうどいいところがあった。それだけの話で、それだけじゃない。それはあなたがよく分かっていたかと思ったけど、違った?」
「スケールのデカい話はわからん。俺は神様じゃないからね」
ターゲットにされていることが分かっていて、なお余裕の顔をしていられるのは、彼らも、そして自分も、同じように縛られていることが分かっていたからだった。要するに、彼らが全力を出すためにはまだそれなりの時間が必要で、それは自分も同様である。即ち、まだ向き合うまでには余裕があり、それまでは自由時間。彼らはしこたま準備をしてくるかもしれないが、自分にはその必要はなかった――はずだった。
イレギュラーとしてこの神が現れるまでは、だ。
それはまさしく籠であり、そして炎だった。想定ではもっと自由に“西村一騎”をこの手の中に収めていたはずだ。少なくとも、昨日まではそうだった。
魂だけでのこのこと現れたそれが、明らかすぎる罠だったと分かっていても、【哀歌の行進】は、それを捕まえる他なかった。捕まえて、手の中に置く。紫筑のクソどもに付き合って、踊らされているフリをする。それだけでよかったはずなのだ。か弱い少女という仮初の姿を与えたのも、この街を一緒に回ったのも――ただ、向こうの策に乗らないように。ただで返してやるわけにはいかないという挑戦状であり、そうすることを想定しているだろうという考えがあってのことだった、はずなのに、だ。
降りてきた神は一瞬でその仮初の姿を乗っ取り、魂を籠に閉じ込めてしまった。まるで横から攫っていくようにそれをやってのけ、そしてなお、こうして接触してくる。
神のすることは分からない。
「そう……けど、あなたは狩られる側」
「いつ決めた?」
「彼らの長がそう言っているのなら、私はその味方をしようかな」
「ここで殺すか?」
「私は炎。どこにでもあり、どこにもない。そうね、私の機嫌が損なわれたら、そのとき焼くというのはどう。私はあなたの居場所なんてものはすぐわかるから、いつだってそうできる」
炎は青く覚めていくほど高温になると聞いた。白に近い青の瞳に見上げられ、【哀歌の行進】は肩を竦める事しか出来なかった。
「神も怪異も変わらないもの。私にあってあなたにないのは、誰かに対する恵みくらい」
「……それは、そうやって囲い込むような?」
「ええ。私、分家とは言っても、私に連なる血は大切にする。例えとっくに忘れられていたとしても、私は忘れないから。それだけのことで、それだけじゃない」
長い髪を揺らして、クレープを食みながら歩き去り、雑踏に消えていく背中を追うことはではなかった。
あれは自分の上位存在だ。うかつに上位存在に手を出すと、ろくなことにならないのはよく知っている。それは紫筑の人間たちも同じだろうが、彼らの長は恐れを知らない。それが一番厄介で、要するにあれは“どうなってもいい”と思っている。手を出すことで掴める結果があるのなら、それを優先する。知識を何よりも優先する、怪異に限りなく近い人間。
(まあ、俺のやることになんら変わりはないんだけど……)
目標とすることはただひとつだった。
この世界に縛られている必要はない。ワールドスワップとかいう面白そうなものにも巻き込まれてはいない。
だから、彼らのターゲットから外れればいい。
「ヨシノアケミ、ヨシノアケミねえ……」
クレープを食んだ。
カスタードクリームとチョコレートソースが、ゆっくりと舌に染みていった。
初めにそれを聞いたとき、思ったことは「ですよね」ということただひとつだった。
実際に実行に移されたときも、思ったことは「ですよね」ということただひとつだった。
今、今だけは、そのどれもが当てはまらない。
発生したイレギュラーは、想定していたものとは遥かにかけ離れていた。『イレギュラーには自己判断で柔軟に対応しろ』ではない。創峰の本部にこの格好で行くか?どうする?行きたいわけあるか!!
『あの~あのさ、神様?俺はどうすれば?』
「さあ……」
説明しよう。俺は西村一騎、哀れにも怪異に対する釣り餌として魂を利用された人間だ。実際の俺は183cmあるイケメン(としたいところだがちょっと自信がなくなってきたので、それなりのイケメンに訂正する)である。魂だけを切り離された理由や技術面の話は割愛する。俺より詳しい人がたくさんいるからだ。具体的に言うと創峰大に。
俺の所属している創峰――紫筑大学、第四学群神秘研究科怪異対策類実務班は、要するに、ひとではないもの・人の道を踏み外したものを狩るための集団だ。人に害なすものをすべて怪異と断じ、被害が広まる前に狩る。不思議不可思議が跋扈する世の中で、明確に抑止力として働いている集団のうちのひとつに、能力を買われて所属しているのだ。学生の身だが給料も出る。
ちょっとした危険や遠征は常々付き物で、“今回もその一例でしかなかった”。別の世界で活動する時、最悪に備えて紫筑ではバックアップを取る。死、あるいは能力の喪失という救いようのない事態に直面したとき、その世界で死んだ記録を記載しない。荒業にもすぎる強力な能力者がいるからこそ(ちなみに学長のことである)、紫筑は積極的に“外”への派遣をしている。
つまり、この世界で何がどうなったとしても、最悪何も記載せず、何事もなかったかのように派遣前のバックアップの“西村一騎”を動かし始めれば良い。肉体の連続性は保たれるが魂の連続性は保たれなくなるとか、難しい話を聞いた覚えはあるが、死ななければ安く済む話だ。学長もそう言っていた。
ただ、今となってはいっそ殺してくれという気持ちに満ち溢れている。
『幼女の格好はまだいいよ、いいけど、神は何故ダイレクトに自分の格好を?俺は訝しんだ』
「私だって楽しみたいことくらいあるけれど……?」
人の魂を肉体から切り離したとき、それは即ち死と定義される。だが、それは元の世界での話であって、異なる世界線ではその定義は適用されない。それを利用して魂だけで行動したり、あるいは仮初の肉体を得たりして、真なる意味の死を回避する。そういう……そういう難しいことを、俺たちの同意の上でやっているのが、大日向深知で、紫筑大学で、その学長だ。
少なくとも今俺たちは、仮に肉体が破損したとしても、何の影響も受けない――とまでは行かないが、生命の保障はされている。そこまではいい。
仮初の肉体は基本的に魂の性別に依存するが、外から手を加えられた場合はこの限りではない。今の俺の場合は、双子であることを利用し、妹と入れ替わった上で魂を切り離した。故に、仮初の姿は女性となるはずなのだ。それはいい。
『そういうことじゃないんだっつの!俺は何故幼女にっていう話をしていて……』
そう。この姿は当然だが俺の妹の姿ではない。妹は成人女性である。
「……それは、省エネというもの。私もあまり、食べてきたものをここで吐くわけにはいかないから」
『省エネイコール幼女なの!?』
「大きい身体を作るのは面倒」
人ではないということを、繕うことすら放棄していることを省エネと呼ぶのだろうか。神の言うことは分からない。
ただ、そこにあるのは、確かな羽の感触と、長く艷やかな黒髪だ。それだけはどうやっても覆らない。
「あなたは安全な籠の中にいると思えばいい。私は優しいから、私の知るあなたでなくても、あなたには協力してあげるって決めている。私に眷属をくれたのは“あなた”。気が向いた私に、私は感謝をする必要がある」
『……けど、あれも俺らしいですけど?』
「在り方が合わないやつは嫌いなの」
クレープを食んだ。何の味も、感覚さえなかった。
この身体は、間違いなく神に主導権を握られているという証拠だった。
「私も楽しいことは好きよ。けど、楽しいことのために、何か悪いことをするのは嫌。その悪いことは私だけが決めていいから、あれとは絶対に合わない、それだけで、それだけではないの」
『……スケールの大きい話はちょっと分かんないっす』
「そっくりね。けど、あなたには秩序がある。従うべきものがある。それだけで、私が愛を与えるのに十分なの」
歩むつま先が炎に包まれ、そのうち全身をなめるように焼いたかと思うと、その姿はこつ然と消えている。