
ゴンッ
というにぶい音と
「イタッ!!」
とあがる声。
ぶつかったその拍子に落下するメガネをキャッチしようと、とっさに手を伸ばすが、
やはりどうにも腕が短く届かない、そのまま床へ落下し軽く跳ねたメガネ。
すぐに拾い上げて確認すると、レンズは割れていないようだった。
「坊ちゃん、いい加減に少し慣れてください」
グノウはそう言って、迦楼羅を見上げる。
グノウ
「うぅ、だってグノウの背が高いから……」
迦楼羅はグノウの額を押さえながら、痛みに震えた声で言った。
迦楼羅
何がどうなってか、二人の体は入れ替わってしまった。
原因は分からないが、ちょっとしたアクシデントのようなものだろうと。
なにせ、この街には不思議な話題や出来事が常にあふれている。
だからこれも、すぐに解ける軽い悪戯や魔法のようなものだと高をくくっていた。
元に戻る日まで、その間に他人にバレたりしないようやり過ごそうと、
お互いにそれっぽく振る舞っているのだが――
(本当にちゃんと授業をできているのだろうか……)
グノウは迦楼羅のふりをして授業を受けることは可能だ。
しかし、逆はどうだろう。
数学の補習で一桁を連発していた迦楼羅に出来るわけがない。
ということで、プリント学習を中心にすることにさせた。
一週間程度ならよかったのだが、こうなってから三週間経とうとしていた。
さすがに誤魔化しばかりではどうにもならなくなってくる。
個別で質問がある場合はのちほど職員室に来るようにしてもらい、
片耳にイヤホン装着、スマホのインカメラで問題を投影し、私と通話をしながら教える。
あるいは私が机の下や裏で待機して迦楼羅に伝え、その言葉をそのまま生徒に伝えるということをするなどして切り抜けていた。
さながら、どこぞのアニメの少年探偵のようであった。
三週間という期間は疲弊と慣れとが混じり合う。
「いつ戻るんだろうね」
自分の声と姿が目の前にある。
夕食時に自分を見ながら食事を進めるというのは互いに妙な気分であった。
「わかりません、早く戻ってほしいところですが」
「そうだよね」
「ええ」
「でも、僕、グノウの振り上手になったと思うんだ」
「……はぁ」
「最初の方は結構、みんな変な目で見られてる気がしたんだけど、最近はあんまり言われたりもしないし!」
「それはただ単に周りが慣れたのか、あるいは変な目で定着されているかのどちらかだと思いますが」
「え、そうかなぁ?でも、見てて!
コホンッ、
"どうしましたか?"」
「……」
「どう!?」
「え、なにがですか?」
「だから、今の!似てたでしょう?」
「今ので判断しろと?
"どうしましたか?"じゃないですよ。もっと他にあるでしょう?」
「え?でも、これが一番似てると思うんだけど」
「似てるもなにも、私の体なんだから声も私のものですし……」
はあ、と大きなため息とともに頭を押さえる。
「もう、食器をさげて洗いますから、その間にお風呂に入ってしまってください」
「はぁい……」
低い自分の声で気のない返事をされると、なんとも複雑な気持ちになる。
風呂場へ消えていく姿を見送り、再びため息をつく。
台所はいつもより広く感じられ、流し台での目線は少し高さ足りないように思う。
小さな箱を台にして、そこで食器を洗ったり、料理をしたりしている。
本来のグノウの体よりも、若く、軽く、視界も明るい。
慣れた腕の長さはなくて、少し柔らかな手の感触。
いつもよりも注意を払って食器を洗う。
料理の時もそうだ、掃除も、通学時も、買い物も。
(坊ちゃんは、深く考えていないだろうな)
この体は坊ちゃんの――主人のものだ。
いずれこれは戻るもの。返すもの。
傷などつけるわけにはいかない。
(そう考えると主人の体で先に湯船につかるべきなのかもしれないが……)
ぼんやりそんな考えも浮かぶ。
「グノウ」
ちょうど片付けが終わった頃、風呂場から呼ぶ声がする。
「ああ、はい。今、行きます」
ぱたぱたと用意をしてから風呂場へと向かう。
手に持つのはガーゼと包帯。
己の体、左脇腹にある、ふさがらない傷。
うっすらと血が滲み続ける。
服に血がつかぬよう、いつもそう自分で処置をしていたが、
グノウの中に入った迦楼羅では包帯の加減が難しいようで、巻く手伝いをする。
だが迦楼羅の体ではグノウの胴回りに手が届かない。
ので、あくまで手伝いだ。
呪いを解くために、抑えるために、弱めるために、様々な世界をともに渡り歩いた。
しかし、グノウは迦楼羅に傷をほとんど見せることはなかった。
こうなってからはじめて、まじまじと従者の傷を見る。
普段はそれほど気にならない鈍い痛みと、
時折思い出したかのように強めに走る痛み。
傷から伸びるようにある妙な痣、いや模様だろうか。
メルンテーゼを出たときにはこんなものはなかった筈だ。
呪いは少しずつ、着実に、グノウの体を蝕んでいるのだと、はっきりと分かった。
「……」
「……」
包帯を巻くこの時間はお互いに気まずく、沈黙が続く。
もっと聞きたいことはあるのに、聞かないでほしい、そう言う風に見える。
そんな沈黙を破ったのは意外にもグノウの方だった。
「――夢は」
「え?」
「私の体になってから、眠っているときに夢を……見ますか?」
「えっと……」
夢?まったくそんなこと考えていなかった為、
突然の問いにしろどもどろになりながら答える。
「夢は、見てない、……かも、たぶん」
「そうですか」
グノウの方はいつもどおり淡々としている。
迦楼羅の声だが、抑揚がなく淡々としたものだ。
「……夢が、なに?何かあるの?」
「いいえ、なんでもありません」
「でも、」
「さあ、終わりましたよ」
「……うん、ありがとう」
夜は更ける。
・
・
・
こうなったのは初詣の翌日からだった。
一月二日の朝になって体が入れ替わっていたのだ。
三が日どころから冬休み中もずっとこうで、学校が始まってからもどたばたして……。
「大人の体になったら、なんでも出来るような気がしていたんだけど…な……」
ベッドに転がり、天井に向かって手を伸ばす。
自分より長い腕、高い背、メガネがないとぼやけてしまう視界。
いつもと違う世界、けれど結局、中身が自分《迦楼羅》なのだ。
「……」
朝起きたら、体が戻っていますように。
そう思いながら毎晩眠ることしかできない。
・
・
・
「ん……」
目を開けると、腕が、指がみじかい。
「戻ってる?」
ぺたぺたと顔に触れる。長い前髪もない、そうだ、やっぱり戻っている!
「でも、ここは……どこだろう?」
知らない街?いや、知ってるような気もする。
僕たちが住んでいる街に似ていて、でも空は赤いし、廃墟?人が住んでる気配がない。
誰もいない。
「グノウ?」
一歩前にだして、歩いてみる。
僕の足は裸足だ。
「ねぇ、どこ!?」
辺りに響く声。しかし何も返ってこない。
夢のはずだ、けれど地面を歩く感触が夢のようには思えない。
空気は重く、呼吸をするほどに苦しくなる。
「グノウ……グノウ……!!だれか…いないの……!?ねぇ!!」
ハアハア、息苦しい中で声を絞り出す。
くんっ、とズボンの裾を引っ張られる感覚がして下を見た。
「あーちゃん?」
グノウの元エンブリオの"アレ"だ。
真っ黒な体に浮かび光る目。
尻尾や手をぱたぱたと動かし、焦り急かすようにズボンを引っ張る。
その時だった、ズッ…ズズッ……、と後ろから引きずるような音がした。
急に空が暗くなった。
そう思い見上げる。
けれど違った。天気が変わったわけではない。
真っ黒ななにかが、僕の上から覆うようにしていたからだ。
そのなにかは、形として人間だとか動物だとかではなく、ただの黒いかたまりのよう。
うごめきながら、なにか形作ろうとしながら、何にもなれない。
剥がれ落ちるように、
そこからぼたぼたと色んなものが落ちてくる。
「うっ、あ……ッ!」
虫や、動物の死骸、どろどろした何か。
黒いかたまりのように見えたものは、そういったもので出来ているのか?それとも、なろうとしたのか。
本物の虫や死骸なのか、わからない。わからない。
地面に落ちてた瞬間は動物のように見えたのに、そこからつぶれたヘドロのように広がり、すぐに形をなさなくなる。
これがなんなのか、頭の中がぐるぐるになって、うまく考えられない。
とにかく、降り注ぐように落ちてはつぶれるものに触れないように、当たらないよう、踏まないように逃げだそうとした。
足が重い。思ったように走れない。
後ろから、ドチャッ、グチャッ、と音がしながら迫ってくるのが聞こえてくる。
「どうしたらいいの?あーちゃん!!」
走ってる車のない道路、歩いてる人のいない歩道、倒れた電柱、
それらをすり抜け、何度も転びそうになりながら走り続けたが、
「道が、ない……ッ」
道には終わりがあった。
途切れていて下は底が見えない。
光が届かないのか、真っ暗闇。
その黒はまるで、あーちゃんの体みたい。
落ちたら死んでしまうんじゃないだろうか。
けれど後ろから迫ってくるものに捕まるのはもっと嫌だ。
あーちゃんの方を見ると、下へ飛び込めとぐいぐい引っ張ってくる。
「うっ、うわぁああ!!」
目を閉じて、
飛び込む、落ちる、落ちて、落ちて……
その時に聞こえた。
ノイズ混じりの、声が。
「体……寄越…ゼ……」
ザザッ……
「契約から
逃れラる…と…思っ…」
ザッ……ザザ……
「
お前じゃない…お前
じゃナイ……」
……ザ……ガガッ……
「出て行け……でていけ、出ていけ、で……いk…て……」
ザッ…ザザッ……ザーーーーーーーーー
「…っ…ん……、ぼっちゃん!!!」
「……ッ!!」
びくんっと体が大きく跳ねる。
ハッハッ、と早い呼吸。
嫌な汗。
ぐっしょりと濡れたシャツ。
「坊ちゃん、大丈夫ですか?」
「ぐ……のう、……夢、ぼく……ッ!」
目の前にいる従者にしがみつく。
体が戻っていることより、ひどい夢見のことの方が大きくて、わんわんと泣いてしまった。
けれど泣いているうちに、こわい夢の詳細な内容は少しずつ薄れ思い出せなくなっていた。
こわくて、嫌で、こびりつくような感覚と、
何かに追い出されるようだったことは覚えいた。
ただ一つわかること、
あれはきっと、グノウの呪い。
「落ち着きましたか?」
「うん……」
「眠れそうですか?」
「……今日は一緒にいて」
「……」
「……おねがい」
「……今日だけですよ」
「うん」
ねえ、グノウ。
グノウはいつもあんな夢に追いかけられているの?
いつも呪いのことを、どこまで聞いていいのかわからない。
早く解いてあげたいのに、こわい夢で泣いてしまう僕に、何ができるのかな……。