
沈んでいく。
冷たい水が膚を突き刺す。
目を開けてはいられず、代わりに開いた口には塩辛い水が入り込んでくる。
だがそれは、欠かすことのできないひとつの工程だ。
夢から覚めるために。
◆ ◆ ◆
手錠は硬く、重かった。
千切れた鎖をぶら下げていてなお、動くのに支障を感じないほどに慣れてしまったから、囚人を戒める枷としてはもはや用をなしていないが、殴るのには都合がいい。
鍵穴はなく、外されることを想定していないから頑丈で、いくら乱暴に扱っても壊れはしない。
上手く使えば、剣や爪や牙を受けるのにも問題がない。
ほとんど溶けて崩れかけた血の色のいきものは、そうして枷で何度か殴ると、呻き声を上げて動かなくなった。
潰れてぐしゃぐしゃになったからだから、瘴気のようなものが溢れるのから身を引いて、ニアク・セイン=アーデは眉根を寄せる。
ワールドスワップにおいて重要な〈影響力〉とやらが、これでわずかイバラシティ側に加算されたことになる。
もちろん、あのエディアンやシロナミから聞いている話が、まるきりの嘘でなければ。
とりあえず、ここまで確かめられる情報のなかでは、嘘らしいものはなかった。
しかし、どこかに偽りが織り交ぜられていないとは限らない。
ここから、いくらでもひっくり返されるかもしれない。
だからと言って立ち止まっていることもできはしない。
指をくわえていたところで、この連中はこちらを攻撃してくるのだから。
止めていた息を吐き出して、ニアクはぐるりを見回した。
アンジニティとは大きく違うその景色に、ニアクはぼんやりと見覚えがある気がする。
……正確には、それはニアクの見たものではない。
だが、確かに〈自分〉の見覚えがあるものだ。
そのことに気が付いたニアクは、いまの戦いですっ飛んでいた苛立ちがまたぞろ顔を出すのを感じて、大げさにかぶりを振る。
ハザマ世界は、異界を侵略するためにワールドスワップによって用意された、文字通りの狭間の世界だ。
だから、あるいは侵略する先の異界──イバラシティを、いくぶんか写し取っているのかもしれない。
となれば、イバラシティの住民たちにとってはもちろん、イバラシティへ〈かりそめの体〉を置いているアンジニティの囚人たちにとっても、どこか覚えのある風景になるはずだ。
もっとも、すべてが〈そのまま〉ではない。
イバラシティは、場所にもよるがおおむね安全で、ごく豊かな世界。
こんな風に、歩いているだけで襲われることはほとんどない。
この一時的な世界には、ビルや人家も見られなかった。
人工的な構造物が一掃された状態で、ここを〈覚えがある〉などと言えるのは、Cross+Roseに表示される地図が、イバラシティの区画とほぼ対応するように分けられていることもあるが、ニアクのイバラシティにおけるかりそめの身体が、人工物がないような場所もうろうろと歩き回っているからだ。
井上夜門は相変わらずだ。
気ままにイバラシティを移動して、同じものを食べ続け、夜は水の中で竜に〈戻って〉眠る。
“竜の見る夢”とその異能は名付けられている。
眠る時、異能を使って竜と変じる時、夜門はそれが人の夢から覚めて竜に戻る瞬間だと信じている。
だがそれは、どうしようもない思い込みだった。
夜門は竜ではない。
周囲から──イバラシティの住民たちから見れば、かれは自分を竜だと思っているだけの異能者/異常者に過ぎない。
ニアクから見れば、人でさえない。
かりそめの人格。
いつわりの存在。
1時間ごとに10日間ぶん、頭痛の種を引き渡してくる、始末に負えない呪いのような代物だ。
どうしてワールドスワップが、このような男をニアクのイバラシティの現身として作り出したのかは分からない。
ほかのアンジニティの囚人に聞けば、傾向からいくらか想像はできるかもしれない。
ただ、ニアクはあの夜門が自分の現身であると周囲に知られるのは避けたかった。
ハザマでのことはイバラシティのかりそめの体には伝わらない。
現身が死んでも、ハザマのニアクが影響を受けることはない。
しかしとにかく、ハザマで目の前にいる相手にあの得体の知れない男が自分であると認識されることに忌避感があった。
嫌すぎる。
こうしてまとめて記憶が流れ込んでくる今だって、あれが自分の現身であると認めたくはないぐらいなのだ。
イバラシティにはざまざまな住民たちがいる。
夜門のような奇人を見ても動じないものであるとか、夜門のごとき変人をものともしない連中であるとかも、確かにいる。
だがそうではない、ニアクから見てひどく〈ふつう〉の住民たち……
平和に、穏やかに、危険のない社会で生活してきた人々が、夜門を見た時に全身にみなぎらせる緊張感。
それを夜門を通じて感じ取る時、ニアクの方に罪悪感がある。
この男が危害を加えるような人物でないことは分かっているが、相手に身構えさせるような振る舞いをしているのもまた間違いない。
とは言え、罪と呼べるほどのものでもない。
こうしてアンジニティに落とされているニアクが言えた口ではない。
この夜門という男のことは気に食わないけれども、ここでぐだぐだと考えていても仕方がない。
どちらかと言えば、ハザマに急に呼びつけられたイバラシティの住民たちに相対した時、自分が怯えられないように気を配るべきだろうし。
そんなちょっとした立ち居振る舞いのことよりも、気にすることはたくさんある。
今しがた潰したような、ハザマ世界に跋扈する魔物ども。
ワールドスワップに乗り、侵略に手を貸すアンジニティの囚人たち。
そういったものたちにどう相対し、対抗し、打ち挫いていくか。
「……よし」
鎖をじゃらつかせ、ニアクはひとつ声を吐き出した。
ともあれ、やるべきこと、できることからだ。
10日のノイズがあるにしても。
ニアクは歩き出しながら、Cross+Roseを立ち上げる。
合流に問題はなさそうだった。