
井上夜門が異能に目覚めたのは、まだ小学生の頃、十にも満たない頃だった。
シンプルな能力だ。竜となる異能。制御に慣れないうちは急に異能が発言し、皮膚が硬質な鱗を帯びたり、牙が生えたり、口から炎が漏れたりすることがあったが、中学生に上がるころにはそれも安定した。
肉体を変化させる異能にはさまざまな種類がある。
完全に竜に変身するのではなく、その特徴だけを何となく発現する異能や、竜ばかりではなくいろいろな動物に変化する異能などもあるが、夜門の発現する異能はいつも同じ竜に変身するというものだった。
皮膚に鱗が出るのも、焔が出るのも、翼が生えるのも、変身までの過程に過ぎず、能力が安定してからはむしろ変身を途中で止めることの方が集中力を要した。ただし、日常生活を送るうえで竜に変化する機会などそう多いものではない。
役には立たないが、制御できる以上は毒にもならない。そうした能力であるはずだった。
はずだった、というのは、この異能がむしろ、夜門の精神に影響を及ぼしていたからだ。
異能に目覚めて少ししてから、井上夜門は変身した先の竜こそが自分の本来の姿であり、人間である自分は〈竜の見る夢〉であるというような発言を繰り返すようになった。子供の言うことであるから、まともに取り合うものはそういなかったし、相手にされない以上は夜門もそれほど主張を繰り返したりはしなかったので、それほどの衝突は生まれなかった。
しかしこの妄想はなりを潜めただけで、確実に夜門の中では大きくなっていった。
それにつれて、奇行も目立つようになった。
いつも同じものを繰り返し食べたりであるとか、服を着たまま川に入ろうとするであるとか。
夜門の家族は当然彼を心配し、病院にも連れて行ったが、夜門は医師に自分が竜であるという主張をすることはなく、あらゆることは有耶無耶になった。
このころの夜門には、まだ周囲を注意深く見つめる頭があり、問題を起こしすぎないようにしようという気分がまだ残っていたのだろう。
辛うじてではあったけれども。奇人や変人であるという評価を貼られながらも。
どこでそのような精神性を培ったのか、それとも自分を竜と固く信じる心があったからなのか、それは分からない。
奇異の目で見られてもどこ吹く風で、淡々と人生を送っていった。
淡々と、というべきか。
夜門は物静かな男ではあったが、それは気弱であったり、後ろ向きであったりということは意味しない。
人によっては陰気と称するような雰囲気ではあったけれども、能動的な男ではあった。
やがて訪れる決定的な転機も、夜門自身が引き寄せたものである。
金が入ったのだ。
仕事の関係で、これから先ほとんど仕事をしなくても、資産を運用しているだけで暮らしていけるような金が。
この時世に。
そして、井上夜門は社会の中で生きる人間であることを放棄して、竜の見る夢として生きることになった。
井上夜門というのは、そういう男だ。
◆ ◆ ◆
「……………いや雑か!!!」
イバラシティに入り込んだアンジニティ囚人のかりそめの体の記憶は、イバラシティの時間ではほぼ10日、ハザマの時間では1時間ごとに、一瞬のフィードバックのような状態で流れ込んでくる。
最初の記憶の“流入”を受けたニアク・セイン=アーデは、ワールドスワップなる術式によってつくられたおのれの〈かりそめの体〉の記憶を受け取って、思わず虚空に向かって絶叫していた。
ニアク・セイン=アーデは記憶のない囚人である。
記憶がないゆえに自罰意識と罪悪感を募らせ、償うためにアンジニティに居続けることを望み、今回のワールドスワップなる侵略についても反対の立場で臨んでいた。
自分のことしか考えなければ、知らぬ存ぜぬでいられる話ではあるが、同時にニアクはイバラシティの住民たちを片道切符の監獄行きに叩き込むことも同意してはいなかった。脱出を望む囚人たちに協力しないのは、本人としては当然の成り行きだ。
侵略のためのかりそめの身分、ワールドスワップが作り上げた仮想の人物。
そうしたものがあるのは分かっていた。残酷なことをするものだと思ったものだ。
アンジニティに落とされた者たちは、事情の違いはあれど世界に否定されたという共通項がある。
入るは易く出ることのできない否定の世界。そこで喘ぐ囚人たちが、ほかのものを踏みつけてでも外へ出たいと望むのに。
その記憶を失わせて、最初からイバラシティにいたかのような偽りの人生を送らせる。
他人が自分の中に入り込むだけでも気持ちが悪いのに、自分たちが今から踏みにじるものたちの存在をまざまざと見せつけられるのだから。
囚人たちの中には、正気ではいられないものもいるのではないか。
ワールドスワップという儀式の中で、それがニアクには引っかかっていた。
一方で。
……まあ、自分はそもそも侵略するつもりもないし、あまり関係がないか。
そんな風にも考えていたのだが。
もうそういう問題ではなかった。
頭を抱えると、千切れた鎖がじゃらりと音を立てる。
決して外れぬように繋がれた、鍵穴のない手錠だ。
イバラシティでニアクに与えられたかりそめの人格には、もちろん手錠はついていなかった。
一度に記憶を取り戻すとは言え、手錠のない軽いからだを得たのは久しぶりで、それは新鮮ではあったが。
それ以外が新鮮という言葉では言い表せないほどにめちゃくちゃだった。
刺激的、という言葉が頭をよぎって、ニアクは呻き声を上げる。
どうにも冷静ではいられない自分を感じている。冷静でいられるわけがない。
なにせ、ニアクのイバラシティでの姿は。
偽りの人生を送ってきた一個の個人というのは。
自分をかたく竜だと思い込み、公園を徘徊しては素手で瓶からピクルスをむさぼり食べる、正気とは思えない奇人だったからだ。
何で?
分からない。
ワールドスワップの設定が雑。
頭痛を覚えて、ニアクは唸る。
別に自分を竜と思い込むのはいいが、いやよくないが、何でピクルスを食べるんだ。
素手で。
何でピクルスなんだ。
何が必要な刺激だ。
文脈がズタボロ。
まったく分からない。
とにかく、ピクルスを食べているのである。
というか、ピクルスしか食べていない。
イバラシティの住民たちは、多くが異能と呼ばれる能力を発現している。
井上夜門の異能は、〈竜の見る夢
(バタフライドリーム)〉と名付けられた竜化の能力。
医者の診断と夜門自身の体感を合わせると、この異能は摂取する栄養を問わなくなる副次的な効果があるようだ。
夜門がその気になれば、土を食べても岩を食べても金属を食べても……もちろん、それを口に入れて味を感じ、飲み下せるなら……特に問題がないはずである。
その中で、夜門はあの酢漬けの食べ物を選んだ。
ほんとにピクルスしか食べてない。
しかも、夜は川だの海だのに潜って寝ている。
寝ている間は異能を使用しっぱなしだが、夜門はすっかり竜としての体が水中に収まりきるまで異能を使わない。
季節は冬なのだ。全身を刺すような激痛が襲っているが、夜門はそれもピクルスと同じ〈必要な刺激〉だと断じている。
意味が分からない。
いや、意味が分からないはずはない。井上夜門の思考や記憶や感情はすべてニアクに流れ込んできているのだ。
でも、絶対に理解してはいけない気がする。
あまりにも自分と乖離している。夜門の中ではすべてが納得されているようなのだが、その思考の流れもすべて分かるのだが。
ぜんぜん分からない、というか、分かりたくない。
どうしてワールドスワップは、かりそめの身分としてあんな雑な存在を設定したのか。
もしかして、儀式に反抗する囚人への嫌がらせなのだろうか。
「クソッ…………」
毒づく。
本当に問題なのが、ワールドスワップによるアンジニティとイバラシティの戦いは、これから36時間続くということだ。
ハザマの1時間は、イバラシティの10日に相当する。
つまりこれから36時間、360日、この意味不明の男の記憶のフィードバックを受け続けなければならないのだ。
地獄だった。
これはどう考えても罪を犯した自分に課された罰とかそういうやつではない。
そうであってたまるか。
「ふざけんな……くそ、負けねえからな。知るか。もう本当に知るか。
関係ねえからな、戦いきってやる……36時間だろ。あっという間だ、そんなもの……!」
もう何と戦っているのか、ニアク・セイン=アーデは分からなくなっている。
そして、気が付いていないのは、男が奇行を為し続ける男であると理由ばかりではなく。
ニアクには、男に対する、根深い怒りのようなものがあるということだ。
ただ、その怒りを見出すには、ニアクは混乱していたし。
あらゆることが一度にやってきて、考えがまとまっていなかった。
……腹立たしいことに、井上夜門はワールドスワップについて、イバラシティの住民として、ニアクと同じ立場をとっている。
アンジニティの侵略など許してはいけない。
自分がもしハザマとやらに召喚されているのであれば、必ず戦って勝ち、隣人たちを守ろう。
その苛立たしい一致を、ニアクは鼻を鳴らして受け容れる。
とにかく、戦いはもう始まっている。
最初の戦いに向かおう。
まずはあの、ナレハテとやらを片付ける。