
ハザマの地。その一角にまとめて人が集められた。イバラシティもアンジニティも関係なく、雑多な人間がごろごろしている。人間じゃない姿も見える。これからタクシーに乗り込む……らしい。らしい、というのは先程無遠慮に叩き込まれた情報をロクに覚えるつもりがないので、すでにあやふやだからだ。
元々、記憶に関して言えば、本来記憶できる容量をとっくに超える年数を生きてきた。だからこそ記憶の取捨選択もしているし、何よりも自分は場合によっては"死んでしまう"から、そこから元に戻る間に無くなっていく事も多々ある。
あまり人混みは好きではない。少し離れた場所に出たフェデルタは、コートの内側から煙草ケースを取りだすと中にある一本を口に咥える。
深いワインレッドのそれの先端を軽く指で撫でると、先端に赤い光が灯り、ゆっくりと紫煙が揺れる。しかし、フェデルタの表情にリラックスした様子はなかった。むしろ、どこかイラついた様子であたりを伺う。
「……」
冷静に考えればスズヒコを探す事はそれほど難しくない。それは単純に彼に大きな"目印"がある事もあるし、何より今の彼は強い感情を隠そうともしないから、それを辿っていく事は不可能ではないからだ。肺に煙を吸い込み、大きく息を吐き出しながら、つとめて冷静に現状を判断する事に努めた。
「……あっち、か」
ざっくりした位置は辿れると判断すれば、咥えていた煙草をつまんで指で軽くはじく。宙に浮いた煙草はそのまま一瞬で燃え上がり灰になってさらさらと消えて行った。
「ッ、あッ……あ、?」
数分歩いたところで、身体の中に一本強い電流が走ったような感覚に襲われて思わずよろめきながら掠れた声を漏らした。この感覚には覚えがある。そうだ、ワールドスワップの時に味わった、あまりにも一方的であまりにも乱暴な情報の、奔流――
「ぐっ、うあ、あ……ッ!」
しかしそれは一度味わったものとは比べ物にならない程に激しい、津波か、洪水か、とにかく自分の力ではどうすることも出来ない程の量の、人間の営みに付随する情景、会話、感情。頭の先から爪先まで、自分でありながら自分では無いものの生きた証で、埋め尽くされていく。作り上げられた設定の中で、確かに生まれている存在に自分が流され、塗り替えられてしまいそうな程に。
そこにいるのは、明るく、恵まれ、愛された人の姿。優しい両親がいて、頼りになる兄がいて、毎日普通に学校に通って、友達と話したり部活をしたり。放課後には遊んだり――ごくごく普通の生活だ。けれど、フェデルタにとってのそれは、絶対に得ることのできなかった生活。
「……はぁっ、はっ、ぁ……おれ、は」
ぐるぐると流れ込んでくる記憶に、自分が、わからなくなる。
辺りの景色に何処と無く見覚えがあるような気がする。ここは、この街は、ずっと住んでいた――?
自分は、イバラシティに、住んで……
『――――っ!』
叫び声が聞こえる。聞き覚えのあるそれが誰の声か考えるより前に、体が勝手に動いていた。
(助けないと――)
きっと、危険な目にあっている人がいる。それを守らなければ……沸き上がる感情のままに駆けた先には巨大なナレハテの姿と、そこに立ち竦む少年の姿。鮮やかな桃色の髪は確かによく知っているものだった。
本来なら、知るはずも無い事にフェデルタはまだ気づいていない。
「迦楼羅!」
フェデルタは咄嗟に少年の名前を呼び、その間に割って入る。少年に背を向けたまま、大きく炎を纏った右腕を振り上げた。
「はああっ!!」
腕を大きく振り下ろすと、ナレハテの真下から大きな火柱が立ち上ぼり、一瞬にしてその姿を焼き付くした。
「……大丈夫か迦楼羅? グノウさんはどこかにいるのか?」
ナレハテが燃え尽きるのを見ると、ゆっくりと振り替えって落ちていたぬいぐるみを拾い上げ、ついた汚れをほろいながら声をかける。
しかし、迦楼羅と呼んだ少年は驚いた顔をしたまま、フェデルタを見つめたまま何度も瞬いた。
「……としひこお兄ちゃんなの?」
驚きと疑問が混ざる瞳と声にフェデルタはそもそも、自分の名前はそんなものではない、と眉を寄せる。
「……誰だそいつ、俺は……俺、は」
「……?」
自分の今までの行為に気が付いたフェデルタの顔がみるみるうちに歪んでいく。不安げに揺れる迦楼羅の視線をよそに、頭を乱暴にかきむしった。
(なんてこった、まさか、こんなに簡単に記憶に引っ張られるのかよ……?)
流れ込んできたイバラシティの、吉野俊彦の記憶に完全に引っ張られていた。あの一瞬だけは、間違いなくフェデルタ・アートルムではなく吉野俊彦として、振る舞っていたのだ。
己の記憶の脆弱さが、ここまでわかりやすく仇となって出るのは予想外だった。
「……ああ、そうだ。俺は確かに、そうだよ」
そうしていた事を自覚してしまったからには、しらばっくれた所でどうしようもない。フェデルタは沈黙の後、ようやく吐き捨てるように言うと、持っていたぬいぐるみを迦楼羅に押し付けるように渡して背を向けた。
ああくそ、と悪態をつきながら新しい煙草を取り出して火をつける。
イライラしている場合じゃないのに、あまりにも自分に対しての苛立ちが収まらない。すべてに対して、もっとうまく立ち回ることが出来れば……、そんなことばかり考えた。
(あの人なら、もっと……)
「坊っちゃん!」
煙草を燻らせながら迦楼羅が何処かに行くのを見てから動くつもりだったが、彼の従者と思われる男が現れ、フェデルタは軽く舌打ちをした。
どうにもやる事なす事が、裏目に出ている気がする。
男――恐らくあれが、自分の口走った"グノウさん"と思われる――が、こちらを警戒する様に見据えてくる。それは当たり前の反応だろう。
(……へえ)
確かに先ほど流れてきた記憶にある顔だった。けれど、実際に己の、フェデルタ・アートルムとしての目で見てはじめて気付くことがある。
あの目は、人殺しの目だ。
仕事で、手段で、花を摘むように人の命を摘み、あまつさえ、それを利用する……そうすることで感情が波立つ事の無い人間の目。
そういう顔をした男が、温室育ちのお坊ちゃんであろう迦楼羅に付き従っている理由はわからない。
けれど、迦楼羅が自分を"としひこお兄ちゃん"である、と認識した以上、彼がこちらに危害を加えることは無いだろうという確信がある。
そうでなければ、あんな目をした男が大人しく従者をするとは思えない。
(……だとすれば)
あの坊っちゃんが寝首を掻く様な選択肢を選ばない限りは、あの従者もそれをしないという事だ。だとすれば、余計な気を張らなくて済む。下手な相手と手を組んで裏切られるなんて事になるくらいならば、彼らを利用する方がいい。
何よりも、正直な所第三者が必要だった。これに関しては、本当に情けない理由で、自分でも辟易する程だが。
煙草を短くしながら、何やら話している二人を遠巻きに見る。グノウの方は、怪訝そうに迦楼羅とフェデルタを交互に見比べているように見えた。流石に、手放しで信用するという事は無いのだろう。
「……話は終わったか?」
フェデルタはわざとらしく口を開きながら、短くなった煙草を握りしめる。手の中で灰になったそれは、開いた先から風に流された。
「……何が目的だ?」
警戒した様子を隠すことも無くグノウが迦楼羅を庇うように一歩前に踏み出してくる。フェデルタも距離を詰めるように一歩踏み出しながら、敵意は無いと言いたげに両手を軽く上げて見せた。
「そんな顔するなよ。グノウさん? ……俺は、いや……俺達はこの侵略抗争に興味はねえ。どっちが勝っても、だ。面倒くせえのは苦手だから率直に言うが、どうだ、組まないか」
「……それで、私達にメリットはあるのか?」
「さあ、言うほど有効なモンは出せねえが……大事なお坊ちゃんを一人で見張るの、大変なんじゃねえのか?」
何処か含みを持たせるようなフェデルタの口ぶりに、グノウの細い瞳が更に引き絞られる。鋭い視線だけで、並みの人間であれば射抜かれるのではないかと思わせる程だ。
「ぐ、グノウ!」
空気がびり、と張りつめた瞬間だった。それを引き裂いたのは悲鳴に近い迦楼羅の声。
フェデルタとグノウが視線を向ければ、先程すべて燃やし尽くしたと思ったナレハテのかけらがまた、別のそれとくっついて巨大化していこうとしている姿が見えた。
「くそっ、タチの悪ぃ!」
大きくなる前に潰すべく、フェデルタとグノウは咄嗟に武器を構えようとするが――
「ッ、な、に?」
空気が大きく震えるほどの咆哮が響き渡り、不安げに呟く迦楼羅と警戒するグノウをよそに、フェデルタだけはわずかに眉根を寄せるだけだった。
そして……
ぐちゃり。
何処から出てきたのか、大きな竜のようなものが、その足でナレハテを踏みつぶし、その爪で跡形も残らず引き裂いていく。
「……スズヒコ」
フェデルタが竜を見上げて呟いた。その上にいるのは、探していた姿だ。その表情は幾分か穏やかがあるように見えた。
スズヒコは呼び掛けた声に応えるように一度フェデルタに視線を向けてから、するり、と竜の上から迦楼羅とグノウの前に降り立った。
「事情は大体理解しているつもりだよ。だから、俺もフェデルタの案に賛成だ。……どうだろう、これも、何かの縁ということで」
スズヒコが極力抑えた声で語りかければ、グノウは口をきゅ、と締めてしばらく悩むようにしてから、ちらりと迦楼羅の方を伺う。二人の間で言葉が交わされ、最後にグノウの唇が"いいんですか"と問いかける。迦楼羅はじっとその瞳を見上げたまま、小さくうなずいたのが見えた。
グノウははあ、とため息をするのも隠さずフェデルタとスズヒコに向き直った。
「……わかりました。ただ、そう簡単に信用はしません……そこはご理解いただいても?」
「もちろん。何かそちらに不利な事態、条件、その他俺たちを見限るような何か……そういうものが発生した場合、この協定は破棄してもらって構わない。フェデルタもそれでいいだろ?」
「……ああ」
「あっちでの縁と、この場所での縁が結びつくなんて、そうそう無いだろうしね。きっと、これは悪い縁ではないと思うよ」
(あっちでの縁……ね)
言いながら穏やかに笑むスズヒコのその瞳が冷たさにフェデルタはほんの小さくため息を吐いた。
先程見えた吉野俊彦の記憶。その中で、彼が信頼している兄がいた。同じように両親に愛され、恵まれ、そして弟を愛した兄の、その顔を見た瞬間に確信した。
"吉野暁海"が"咲良乃スズヒコ"であることを。
そして、
彼がその事実に対して怒りを覚えている事も。