
急に世界が動き出す。
ハザマの世界が、時計の針が。
「一時間?」
白南海とかいう男がつぶやいたあとを境にして記憶が入ってくる……いや更新されていると言えばいいのか。
ハザマでの出来事や記憶はイバラシティでは記憶されない、覚えていないのだ。
だが街でのことはここでは覚えている。
ハザマで一時間過ごすたびに、あの街で過ごしたことが波のように押し寄せてくる。
「これでは向こうで誰が敵だか分からないということか」
あの街で裏切り者をあぶり出すことは出来ない。
このハザマの世界で堂々とやり合わなければならない。
少しあの街に馴染んできた頃だ。居心地も悪くない。
イバラシティそのものを守るというよりは、日常を壊されたくないという理由かもしれない。
まあ理由など人それぞれだろう。
そして逆もしかり。違う陣営であるかぎり、奪う方も理由があるのだろう。そして到底わかり合えるものではない。
話し合いなど無意味だ。
戦うことは避けられない。
状況整理などをしたいが、とにかく坊ちゃんを探さなければ。
「あっち、か……」
様々な気配が入り交じり、勘が鈍る。
だが、人混みをさけているのかまばらになってくる。
(私が探しやすいように離れた場所へ行ったのか?それとも、誰かに――)
連れ出されたのか?
そんな嫌な考えがよぎった時に、遠くからあがる声。
間違いなく、迦楼羅のものだった。
急いで声がした方角へと駆け出す。
「坊ちゃん!!」
主人を見つけたとき、見知らぬ男と対峙し、
男は迦楼羅の大事にしているぬいぐるみを押しつけるようにしていた。
「なんだ、お前は――」
主人は戸惑ってはいるが、恐怖に駆られているようではなかった。
だが、グノウは―従者はその異質さを感じていた。
(
この男は、危険だ)
頭の中で警鐘を鳴らす。
男の姿をしている、だがその奥にあるものは普通ではないと感じた。
それはただの人間ではない、普通に生きていて持ちうるはずのない、強大なもの。
そして何よりその目を見て分かってしまった。
背が逆立つような、ざらつく感覚。
つまりアンジニティ側の者だと判断する。
「――坊ちゃん、すぐここから離r「まって!ちがうの!グノウ!!」
迦楼羅を後ろにかばうようにして、
とっさに武器を構えようとするのを、迦楼羅がグノウの右腕にぎゅっとしがみつくようにして制止した。
「違うの、この人は僕を助けてくれたの」
「……助け、て?」
デジャブかあるいは白昼夢のよう。
このやりとりはついこの間あったばかりだった。
従者は記憶力に優れており、すぐにその出来事を思い出すことができた。
「吉野俊彦」
その名前をつぶやけば、迦楼羅はコクンと小さく頷いた。
話によるとアンジニティの人間はあの街で、ごく自然に成り代わっているという話だった。
向こうでの彼の名前。迦楼羅は彼に助けられ、勉強も一緒にするような仲。
学校は違えど、年上のよき先輩といったところだった。
(何を信用すればいい?)
相手はアンジニティの人間で、イバラシティを侵略する存在。
けれど坊ちゃんを助けた。
アンジニティにもイバラシティにつく者がいるのか?
悠長に考えている時間は無い。
アンジニティの者たちは、人ならざる者も多いと聞いた。
何よりもそこは咎人、否定された者たちだと。
「……話は終わったか?」
特にこの男の前で警戒を解いたり、無防備であることは、
「……何が目的だ?」
最悪な結果を招くかもしれない。
眉を寄せ目を細める。
「そんな顔するなよ。グノウさん? ……俺は、いや……俺達はこの侵略抗争に興味はねえ。
どっちが勝っても、だ。面倒くせえのは苦手だから率直に言うが、どうだ、組まないか」
「……それで、私達にメリットはあるのか?」
「さあ、言うほど有効なモンは出せねえが……大事なお坊ちゃんを一人で見張るの、大変なんじゃねえのか?」
敵意はないようではあるが、
(苛つく……)
こちらは情報がゼロに近い。
だというのに組むようにと取り引きを持ちかけられている。
断りにくい言い回しで、だ。
メルンテーゼでの時は一つの目的があった。
王を倒すという目的が。
だから共に行動する者達のほとんどが目指す場所が一緒であった。
だが今回は違う。
アンジニティを相手にしながら自分たちも進んでいかなければならない。
ちら、と迦楼羅を見る。
仕方なく巻き込まれたことだとしても、何かあっては困る。
男の言い分はもっともだった。
ただの魔物ではなく、知識、知性、あるいは狡賢さのある罪人たちを相手するということが厄介であるということを。
だが男もまたアンジニティの住民だったのではないのか。
そこへ落とされるほどのことをしたとすれば、そいつの言うことを鵜呑みにしていいのか?
「ぐ、グノウ!」
迦楼羅の声にハッとする。
見れば先ほどのナレハテがまたくっつき合い、巨大化しようとしていた。
ズブズブと鈍い音をさせながら、ナレハテの残骸同士が集まりくっつきあう。
一気に片付けなければまたすぐに同じことを繰り返すだろう。だがそんな一撃を放てるかどうか。
(やるしかない)
手のひらに浮かぶようにあるのは燕を模した先端と、尾から伸びる長く黒い鎖。
時に切り裂き、時に抉るように飛ぶ、暗器にも似た武器だった。
巨大なナレハテへ向けようと構えた、その時――
ぐちゃり
ナレハテは潰される。それがいったい何によってなのか一瞬、わからなかった。
遠目からでも目立つ、巨体の竜。
あの街で存在していたのなら自分たちの耳にも届いていたはず。
つまり、あの街には存在しないもの。この竜、そして竜に乗る人影が見えた。
こいつもアンジニティ、か──
「……スズヒコ」
どうやら男と知り合いのようだ。
スズヒコと呟かれた名の男が竜から降り立つ。
長い髪を後ろで三つ編みにして流している。
一見するとまだ火傷顔よりは優しそうに見えるかもしれないが。
(こっちもずいぶん異質な……)
「事情は大体理解しているつもりだよ。
だから、俺もフェデルタの案に賛成だ。……どうだろう、これも、何かの縁ということで」
火傷顔の方はフェデルタというらしい。
スズヒコはフェデルタの案に乗るという。
こっちは二人が顔見知りだということしか把握できてないというのに、次々展開しては勝手に話を進めていく。
グノウのしかめっ面のまま、後ろにかばっていた迦楼羅を見た。
「どうしますか?私は賛成しかねます」
「でも助けてくれたよ?僕だけじゃない、ポプリのことも!
それにどっち側でもないなら、断ったら向こう側についちゃうかも。
としひこお兄ちゃんと戦うのことになるの……いやだな……」
「あれは彼ではないです。それにあの男は……、……」
「な、なに?」
「何でもありません」
言いかけてやめる。今、ここで言っていいのか分からない。
なぜならそれは自分にとっても不利なことだったからだ。
それを指摘して、
"お前はどうだ?"と言われたら言い返せない。
ぐっと言葉を飲み込み、
少し視線をそらし流れる沈黙。
それを破ったのは迦楼羅だった。
「でもね、もしかしたらこの世界にグノウの呪いをなんとかできる人とかいるかもしれないでしょ?
だってスズヒコさん?みたいな竜に乗ってる人もいるし!」
「……」
「だから一緒に戦ったり、探したりしてくれる人がいた方が心強いよ」
きゅっと従者のスーツの袖をつかむ。
「グノウが一番、頼りになる……けど、その…グノウになにかあったら……」
こういう時のかるらの意思は強く、よくも悪くも人を信じると一途なところがある。
「いいんですか」
と最後に問えば、曇りなく、濁りもない、宝石のような澄んだ瞳でこくんと頷いた。
最終判断は主人によって下された。従者としてそれに従うまで。
「……わかりました」
――と。
「ただ、そう簡単に信用はしません……そこはご理解いただいても?」
「もちろん。何かそちらに不利な事態、条件、その他俺たちを見限るような何か……
そういうものが発生した場合、この協定は破棄してもらって構わない。
フェデルタもそれでいいだろ?」
「……ああ」
「あっちでの縁と、この場所での縁が結びつくなんて、そうそう無いだろうしね。
きっと、これは悪い縁ではないと思うよ」
一見すると人当たりがよさそうなやりとりに見えるかもしれないが。
(薄っぺらい)
悪い縁ではない、そうは言うが本心が全く見えない。
まるで薄氷。
しかしそれは自分たちが立っている場所にも言えた。
一枚の薄い氷の上。間違えれば簡単に割れてしまうだろう。
こんな呪いがある状況ならいつ凍った水の中に沈んでいってもおかしくはない。
あの街の縁など、所詮都合のいい口実。
メリットがあるから提案してきている。
だったらこちらも利用させてもらおう。
この時間、世界を、闘いを乗り切るために。