ヒトが、最初から嫌いだったわけじゃない。
むしろ、ヒトにはちょっとした親近感を抱いていたものだ。
マモノの中の弱者と、怪獣の中の弱者。
似たような存在にシンパシーを抱くのは、怪獣であっても想像に難くない。
彼らは、領地もなくはぐれ怪獣に成り下がっていた小生にとってなにより近しい存在だった。
書物もたくさん読んだ。ヒトの何事も記録に残したがる習性は面白いと思った。
植物や社会に関する本に、特に興味を示したものだ。
ようやく得た領地は厳しい環境だったことから住処の砦を訪れる人間はさほどいなかったが、
かつて歌謡いや行商人が訪れたときには、丁重にもてなした覚えもある。
――そう。とうに、昔の話だ。
シンパシーを感じた者達に心を許した結果が、
あの灼け朽ちた砦だ。炎に捲かれた街だ。
蹂躙された、土地と民だ。
ヒトを恨んで、何が悪い。
だが……
*
イバラシティの面影を残した廃墟を歩く。
傾いたビルに、やけに見慣れた人影を見た。
あれは……雲谷千晴?
思わず自分の目を疑った。
おかしい。しかし、あれは間違いなくあのヒトの娘だ。
ここに訪れるイバラシティのヒトは限定されているという。
それも大体、戦力となるヒトが集っているはずだ。
異能を持たない、戦力となり得るはずもない彼女が、いるはずもない。
これは、罠か?いや、誰が罠を仕掛けるというのだ?
……どうせここから当分、脅威は無いだろう。
何より、時間が惜しい。
先に進むセンパイ共をよそに、人影を追いかける。
歪んだ建物を、直角に曲がる。
焦り。確かにそれもある。
それにあれの慰めのひとつである以上、動向を探る必要がある。
……ヒトの言う情、というものも少なからずあるのかもしれない。
だが言ってしまえば、自分が滑稽に思えてしょうがなくなる。
決して口になどするものか、決して。
瓦礫を軽く飛び越えると、住宅地の十字路に差し掛かった。
そこにあったのは、『2つ』の、影。
その影のひとつが自分の姿を認めるや否や、首に何か剣のような、鋭いものを突きつけてくる。
ヘマをした。
煙霧で姿を覆っていたものの、気配に勘付かれては元も子もない。
おまけに寸分違わず喉元に当てにきているときた。
観念して、すっと目の前の霧を晴らす。
その先で蹲る自分を見ていたのは、
熱線のごとく熱く、しかし冷水のように冷ややかに貫く視線。
……
妹の、雲谷千晴だ。
* *
夕焼け空が、綺麗だった。
夏も近付いて、昼は随分と長くなった。
そんな日の夕方、電話がかかってきた。
相手はお母さんだった。
自分から受話器を取ったのは、
いつぶりだろう?
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千晴 「お母さん、久しぶり!」 |
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母親 「そんな事より、まだ帰ってくるつもり無いの?」 |
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千晴 「もう、お母さんたらせっかちね。 夏休みになったら2人で一緒にお家帰ってくるから」 |
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母親 「え、2人?……千晴ったら、もう彼氏作ったの? 呼ぶのはいいけど、先にどういう人か紹介してよね」 |
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千晴 「え、ええ!?違うわよお母さん! 私にはまだ、そんな人いないってば!!」 |
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母親 「あら、そうなの?まあいいけど……なるべく早く帰ってきなさい。 お兄ちゃん、千晴が返ってこないと哀しむわよ。 高校生になった千晴を、早く見たいと思ってるんだから──」 |
えっ……?
何を言っているのだろう、お母さんは。
煙兄はここにいるじゃない。
一緒に暮らしているじゃない、いやだわ。
――そんな思考と反して、額からはおびただしい汗が流れていく。
……嫌な予感がする。
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千晴 「お母さん? 何を……言っているの……?」 |
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母親 「まさか……忘れたなんて、冗談でも止めなさいよ!? 日付を見れば分かるでしょう?
もうすぐ、煙次の13回忌──」 |
ごとん。
受話器が零れ落ちた音だけが、千晴1人だけの部屋に鮮明に響き渡った。
一瞬の静寂。
次いで少女の悲痛な絶叫が、アパートの一室に轟いた。
* * *
「チハル……?」
呼び慣れた名だ。
だが、発した一言が自分から出た声には到底思えなかった。
それ以上に驚くべきは、理解が追い付かないような目の前の状況にあった。
霧が晴れると共に、得物を突きつけた相手の顔もよく見えるようになった。
騎士よろしく千晴の前に立ちはだかる人物……その顔を、自分はよく知っていたのだ。
いや、当たり前にも程がある。
だってあれは……
イバラシティでの自分なのだから。
全身黒尽くめで、髪型の特徴的な部分こそ消失しているが、間違いない。
どうして自分であるはずの……
雲谷煙次が此処にいる?
「……っ、……!」
首元に熱を感じる。
視線を戻せば、いつのまにか突き付けられていたものが、喉に深々と差し込まれている。
気付かなかったのは、痛みはそれほど無かったからだ。
代わりに身体全体が怠さを訴える。強烈な睡魔が襲い掛かってきた。
相変わらず視線を向けていた千晴の瞳が、口元の微笑みと共に煌々と光る。
それと同時に、背後で何かが煌めきを放った。
それは太陽のようで、また違う。
中心部は紅く輝いているものの、そこから発するプロミネンスは黒々として、
妖しい光を見せながら揺らいでいた。
「お兄ちゃんはここにいる。ねえ、そうでしょう。お兄ちゃん」
千晴は、いつの間にか影のような色をした長身の男の背に寄りかかっていた。
その問いに、肯定も、否定も出来ない。
ただ何か、どうしようもない違和感が胸のうちから湧き上がる。
違和感があっても、それを正すことは出来ない。
手は届かない。
指が、空を掴む。
取りこぼしたパイプは遥か遠くの地面にある。
主の加護は、あまりにも遠い。
地面に倒れ伏して、目を、閉じる。
瞼を閉じてしまえば、もう開くことは出来ない。
視界は闇だけになって、声は遠くなる。
やがて自分が何処にいるのかも、分からなくなる。
「……おやすみなさい」
意識が遠のいて行く中で、そんな声を掛けられた気がした。
雲谷 千晴
相楽伊橋高校に通う、高校3年生。
彼女が異能を発現させたのは、3歳の頃だった。