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今までの中でもっとも高級そうな、そして丈夫な紙に、劣化しにくいインクで丁寧に文字が刻まれている。さらには保存[preserve]の魔法までかけられている。
私は一つの決定を下した。決意と言うには客観過ぎるし、これから行うことは主観を捨てる可能性があるからだ。
この世界、カレイディアの存在は、私に世界が複数あることを示した。そして数多の世界からの来訪者により、それぞれが物理法則、魔法体系、民俗学(人類学との区別を私は知らない)、法(正しくは善悪と倫理)etc...が異なり、それは民族や人種、国の差ではなく、大きな隔たり、隔絶をもっている。
つまりそれは作曲者の違うクラシックのような同じ盤上のものではなく、作者の違う小説(かたや幻想小説、かたや体験記)が同じ文字媒体だからといって文学と片付けるようなものである。ここでは、隔絶されたそれぞれを世界と呼んでいるが、呼んでもよいのだろうか?
そして、隔絶されたそれらからの来訪者を同じ舞台に上げる召喚士とカレイディア。それはまるで、どんな存在だろうとカレイディアは内包し、許容し、変革させる。カレイディアの規律に隷属させる力を持っている。それを可能にするのが、依代[confine]システム。 魂を器に閉じ込め、規格外の存在を全て同一線上に並べる。それがconfineであり、それがカレイディアのルールである。
召喚士曰く、召喚が不完全に終わったからこそ、私たちは魂のみの存在となり、依代という媒体を通してしか能力を発揮できない...と言われている。だが、逆に言えばそれによりどのような来訪者だろうと被召喚物として扱われているのだ。 それは駒であり、兵隊に過ぎない。人生の物語の主役は、当人たちそのものである。だが、カレイディアの物語の主役には私たち被召喚物はなることができないのだ。
来訪者たちは、それぞれの世界に起因する気質によりいくつかの選択をした。甘んじて兵器としての役割を受け入れる者。ただ世界のルールに慣れ親しみながら己のやりたいようにやる者。駒を好しとせず、面従腹背しなんとか舞台の中央に立とうとする者。 おそらく私は第三者だったのだろう。元の世界において少なくとも万能だった。研究者としてカレイディア及び世界構造を観察する反面、依代という器の窮屈さを感じていたのも否めない。
依代を乗り換えていく反面、膨らんでいく疑念があった。 依代は力を制限している。それは召喚士の力量が如実に顕れているともいえ、召喚士たちが彼女と呼ぶ...魔女との勢力争いに勝ち進むほどに依代はより強いものに乗り換えることができる。 依代を乗り換えることにもいくつかのルールがあり、それは進化系のように下位の依代の能力を浸透させなければならない。 つまり、魂側の私たちにカレイディアのテクニックを、記憶を与えているようなものである。 その上で、より強い依代に乗り換えたとき、器と魂の関係はどうなるのだろうか?
来訪者によっては肉体本来の意識との共存を図るものもいるし、多くのものは私のように肉体の意識を屈服させ、制圧し、肉体そのものを魂の姿としている。 だが、それも召喚士により器に魂を封じられるからこそ行うことができているのだ。召喚士が手を銜えたならば?強い依代の意識を屈服させることができなかったら?
・・・・・・。
今ここに、一つの依代が提示された。 それは私が望んでいたような器だった。脆弱な術士ではなく、そして肉体のみで戦う戦士でもなく。 それは剣であり魔でもある。
Phantasm Sword
それは召喚士の剣。 特性として召喚士の護衛を強制的に志願するという性質を持つ。 これは魂が肉体を制御できない場合もあるということの証明とも言える。
これを私の依代にしようと思う。 私が私でなくなるかもしれない。意識の支配が及ばないかもしれない。 けれど、この依代は元世界の私に近い私であるし、何よりも召喚士のカレイディアの意図を世界としての悪意の有無を量るに適していると判断した。
その対価が私という意識であるならばそれはそれで安いものだろう。 だからこそ、この記録を書いている。
むしろ何を持って私が私であると言えるのだろうか。
遠い世界の書にこのような記述がある。 『不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。』
私と私以外には必ず区別があるのだが、私が私と肯定されるには私以外の誰かが私の認識を共有し確認する必要がある。 それくらいに現実とは曖昧であるし、カレイディア世界そのものが私が見ている夢かもしれない。 もしかしたら、私...コーネリア・ブラウが夢で、依代自身が現実である。という可能性すらあった。
それくらいに、器と魂が別物であるということ、それを理論として証明及び解明することは難解で理解しがたいものである、と私は考えている。
考えてみてほしい。今、この瞬間の自分と数年前の自分。それが同じであると自信を持って言える者がどれくらいいるのだろうか? 過去の自分は、自身の記憶と他者による同意と肯定によって成立している。記録媒体すらもまたその成立を補助しているに過ぎない。同じ姿形を持ち、自身と似た思考、発言、行為、声音をしていれば自分である。 それは危うい認識論という名の細い糸の上にいるようなものである。
過去の記憶経験によって今の自分自身の性質が出来上がるが、その過去は時間という経過によって薄れ、呼び起こされにくくなるものである。それでは、その呼び起こされない記憶経験による、深層意識下で私たち自身の今が成立している。と、定義していいのだろうか?
それでは依代という器の中にある魂だけの私たちは姿形を己自身のものにし、意識経験による自意識に変化がなければ、器による支配不可能部分があっても私は私足りうるのだろうか? 魂の自身の意思に関わらず、行為が為されるのであればその瞬間に魂と器の関係は魂≧器ではなく、魂≒器に近しいものになるだろう。 どんなに姿形を似せたところで、過去経験の影響下からも逃れ、自意識による制御もされない、私はそれは私ではない別の存在だろう。
最後に、私は私でなくなったときの為の保険をかけておこうと思う。 生命と激情を示す、赤[rot]。精神と知性を示す、藍[blau]。 剣と魔、赤と藍の魔石色を掛け合わせた色、二面性と不安定を示す、紫[lila]。
Blauでない私はLilaだ。
さようなら、私。はじめまして、私。
紙の横には万年筆が置かれ、眼鏡もそこに添えられている。 テーブルの下には雑に切られた髪が落ちていた。
今までの中でもっとも高級そうな、そして丈夫な紙に、劣化しにくいインクで丁寧に文字が刻まれている。さらには保存[preserve]の魔法までかけられている。
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