その天使像は荘園の物置の片隅に置き忘れられていた。
左の翼が欠け、歳月に目鼻を旧びさせ、信仰のよすがの偶像としてはもはや技の巧みの多くを減じさせていた。両手は祈るような仕草で胸前に組まれてありながら、中指は半ばで欠け落ちていた。写し取られた聖性のぶざまは、けれど冷笑よりもむしろ一切の消え去っていくあわれさを思わせた。かつてはその天使も浄らかさをとどめていた……エンブリオとしてヤールが約したひとときには確かに輪郭のある力能をもたらしもした。


天使像は天使ではなかったが、天使として機能した。似姿として写し取られたものがみなそうであるように。私の左手に宿る天使もまた、それは天使の似姿でありながら、あまりに多くの命とネクターを捧げられては、今やその力の大なるはメルンテーゼの約されてある天使にあって疑いなく随一の存在だった。けれどその力の燦らかとは裏腹に、相変わらず姿の仔細はひどく不安定なまま、厳然の輪郭を持たず、あらゆる名づけを拒んで、在るとも無いとも言い切ることのできない揺らぎのなかに移ろっていた。


母が私に託した天使は、謎を保った。その正体はついに知れず、近づくことはできなかった。私の思索はいつも天使のまわりを迂回し、やがて結論を留保して歩み去った。天使は光であり、顔を持たず、直視を拒み、ただ愛としてだけ私を助けた。ごく身近な言葉でそのあり方を呼ぶのなら、端的に、恩寵だった。束縛を介さずにただ助力する、それはどうしても逃れがたいある呪縛を常に伴った母の愛よりもなお神的だった。


神、という言葉を考える時、ひとりの少年の顔を思い出さないではいられなかった。メルンテーゼにあって私と同じく、誰よりも強い天使の力を目指した者。いつのころからか嗅ぎ取れていた天使の香りは途絶えていた。――死んだのでないことを願いながら、神のない私はなにに祈ることもできなかった。


天使のエンブリオの常として、私の天使もまた、七色の光の奇蹟の先には神の祝福と呼ばれる贈り物を私へ贈与していた。神、と呼ばれるそれはけれど天使のエンブリオがもたらす祝福とついに質的には変わらず、ただその量的な大きさのみが神の名を冠する巨大さとして語られていた。であるなら神は畢竟、エンブリオの強大さであり、強大さの線的な先に、二次元的に到着されるひとつの踏破可能な道程の先の存在であるのか。


その想像は私の日頃からの神論を補強するように合致した。ある強大な存在者の作為なしに世界の秩序は考えがたい。しかし絶対不可知の現象が存在するとも考えがたい。であるからこそ私にとって神は長いこと、ある《大きな有限の力の存在》であり、有限である以上、どれほど大きかろうとその力は数理的に乗り越えられる存在であるはずだった。かつて永遠の神としてレルヴォヴェールを支配した魔王エルを、人間と犬が有限の力で殺し排除したそ歴史を持つ革命の世界にあって、それはごく一般的な神の理解だった。神々の世界オルヴェオ・プリューの存在が噂されるようになってからは、なおさらにその認識は顕著になった。神は巨大でありながら到達可能な有限さの先にある存在だと。


けれど私のエンブリオは、天使は、強大さによってよりも、曖昧さによって自らの距離を隠した。在るとも知れずないとも知れない見つめがたさは輝きをまといながらむしろひどく闇に似ていた。《謎》が天使の力だった。説明可能な有限さから常に免れていく正体不明の存在。それは到達を阻み、解釈を退け、誤読を赦しながら一切の理解を拒絶した。


（それは踏破を赦さない）


（それは踏み越えられる一切の決着から離脱する）


（謎を謎のままに保ちながら、干渉し、あるいは干渉せず、消えていき、また顕れる）


（知り得ないものは、逃れながら永遠を約束する）


星屑の小川が流れている。光が川面にきらめき、けれど水はすでに一瞬前の姿を失ってはるか下流に去っていく。時を凍らせることはできない。水をとらえることはできない。下流へ向けて絶え間なく行き過ぎる未来がある。


私は石を拾う。振りかぶり、投げる。一度、二度、三度、鋭く回転しながら水に跳ねて、石が飛んでゆく。


（命は飛び石。とどまれば沈む。だから私はこいつを投げる。回転しながら、水と触れて、一瞬一瞬、次の空へ、保証なしに投げ出されて、己の鋭さだけを信じて、戦い続ける）


（神は斃せる。けれど謎は残る。問いかけることは終わらない。問い直すことも終わらない。政体は変わるだろう。少しはましになるだろう。けれど抑圧は消えないだろう。疎外は残存するだろう。新たな異議がうめくだろう。人は問い直す。政体を、法制を、神論を、本を、思想を、心を、愛を、問い直しながらそのたびに現れる答えは、けれど少しずつ捉えそこねて崩折れるだろう。そうして謎が残る）


（問いは残るだろう。天使のように。あらゆる理解されたそぶりのまやかしと人は戦うだろう）


（私もまた続けるだろう。読み切れないものを読み直し、見限れないものを見直し、殺し切れないものを殺し直し、救い切れないものを救い直す――自らの回転と自らのそばにある者たちを信じて）



水切り石が星屑の小川を跳び続けていく。終わらないまま。着水を裏切って。九度、十度、十一度、やがて翼を持つ。川の両岸をつなぐほどの大きな白い翼が羽ばたく。清風が木立を揺らす。光輪が微笑む。鐘の音が響く。天使が遠ざかっていく。私の目にはそれが見える。謎が実在する。そうしてまた私は戦い続ける。





　

街の雑踏。豊穣果通り。
少年、が、歩いている。恐らくはいつかの店を、そして、もしかすればそこに居るかもしれない誰かを探して。
そうしてしばらく通りを行ったり来たりしていたが、どうにも目的の店は見つからないらしかった。
やがて、小さく息を吐き、その場で立ち止まる――再び歩き出すまで、わずかの間。
そうして、少年はそのまま、人混みに紛れて消えていった。

オマエさんらしいなと、笑う。

男は背を向けると、軽く右手を挙げ別れの挨拶とした。