肩甲骨は翼の名残で、肋骨は、作られた女の象徴だ。


（フィガロ、お前の骨は美しい形をしているように思う）


*** *** ***


彼女は美しかった。
ただそれは性別を超越した美しさではなく、自然の奇跡を思わせるものでもなかった。
彼女が保持していたのは、ただ、女としての完璧な美しさ。

それは。
それは、神がかりのように飽きられず積み重ねられた日常の果てにひとつ、存在した。白のシャツに指を通す瞬間の背筋。口紅を塗る時の伏し目、睫毛の瞬き。手を洗うたびに彼女の肌には香りの良い油分が補充され、オルガの作る花爪を宿すために、その爪は髪の毛の細さ程の単位で切り揃え、塗り込められた。反復。それを厭うことはなにひとつとしてなかった。反復、閉じられた世界を巡るような、その世界の密度を上げるしぐさ、行為の全て。

もうひとつ、彼女の遺伝子、究極に濃縮された、美を求めるタカージュドールの強い意志の果て、その具現としての彼女が、いた。

タカージュドール。
その世界は鳥籠の世界と、呼ばれる。籠を模した、魔力で編まれた網、ただひとつの世界の出入り口。そして、その世界からはばたけない女たち。その世界の中で格別の血脈を継ぐ、数えられるほどの娘たちが、いた。純血の、そして純潔の、小鳥たち。親の顔も知らず生まれ、世界の中でただその美を謳歌し、いつかやがて、またその血脈を継ぐ者に、遺伝子は継承されていく。けれど、それもすべては籠の中の出来事。彼女たちの知らない恋。純潔の。純潔。

籠の外では人は恋をするのだという。恋。その言葉の描くものを彼女たちは何も知らない。知ることもなかった。（花を摘むことに、胸の躍ること？）
それはきっと、未来を志向し、己の自我で未来を切り開くそのすべてのことだった。けれど、それを知ることはない。なぜなら籠の外では人は恋をしてしまうのだから。
人の血脈を継承するには、遺伝子をふたつに割ることからはじまる。己のからだに眠るあまたのふたつのうちのひとつを、互いに差し出す行為のことだと。タカージュドールの美しき遺伝子をふたつに割ることなど、出来るのだろうか？その割られた遺伝子が繋ぐものは、どの鳥籠で確保されるべき血脈なのだろう？――否、それでは、「完璧な」美しさを維持することなど、不可能で。では、どうしたらいい？　完璧な美を完璧なままに繋いでいくために。その遺伝子を子宮に宿すために。肋骨からひとをつくるように。薔薇の挿し木のように。汚れたものを口にすることなど、なく。身に宿すこともなく。
けれど、その遺伝子は紡がなければならない、繋がなければならない。世界は維持されなければならない。それ故に男は必要がない。ただ、女がいれば。なぜなら、世界を身の内に宿すのが、紛れもない女だからだ。
……いつの時代も、どの瞬間を切り取ったとしても、鳥籠の中には美しい鳥がいなければならない。そうでなければ、なんのための鳥籠だろう？　何を囲うための。鳥の不在の鳥籠など、どんな意味が。どんな瞬間でさえ。そのためには、逃げだすことも、血脈の途絶えることも、果ては、美しくない鳥の在ることも世界は赦しなど、しない。



エル・フィガロ、身代わりの翼、「女」を示す名を持つもの。輝けるもの、エル、彼女もまた、世界に愛された純潔の小鳥の、ひとり。


*** *** ***


目覚めたときに出会ったのは、背の高く、白く、そして何よりも瞳のない、男だった。彼女を抱え上げ、すぐそばにおき、戯れに父と娘と呼び合う。ふたりの世界。彼は、男だった。恐らくは。ヒトではないのは明らかだったが、それでも、男だった。正しくは、女では、なかった。彼女のかつて背負った定めを背負うものでは。

幾月かの果て、彼女は――出会った。医者と名乗り、強く青く、黒く、炎を瞳に宿した、女、を。そして共に暮らした。3人で、やがては過去の咲く庭と呼ばれた、その広い荘園で――。けれど、彼女は女だった。共に暮らした、長い年月は、彼女が女であることを明確に、フィガロに思い知らせる。そして、彼女にひとつの喪失を、思い起こさせた。


彼女には、子宮が、なかった。


この世界に生まれ落ちた時から、彼女は不完全な存在だった。鳥籠を逃げ出した小鳥に、己の完璧な美、完璧な遺伝子は憐れむことなどしない。体の腐敗する、留めおちる、失われる美を前にして、彼女は――エンブリオ・ディオールと契約し、己の肋骨に命を宿した。己を蝕む殺意を抑え、現在を留める媒体として。命の残り香として。そして代わりに、その代償として、女であるその象徴の内臓を――子宮を差し出した。元より命を紡ぐことなど出来ない。未来などなかった。女であることを失ってでも、護りたい女としての美があった。そう、信じていた。あるいは、今も信じている。未来を残すことが出来なくても。留めたい過去のために、現在を生きるのだと。未来など、望んでいなかったのだと……


*** *** ***


散ったフロラを大切にダイゴが愛しんでいた光景を思い出す。散った花に意味などないと。失われた美にどんな意味があるのかと。
けれど死んだ小鳥を食した子猫を見て、その小鳥を羨んだことや。恐らく、いつか失われる美を湛える彼女に、その時自分を抱えるものがあるのか、という動揺や。散った花のその先に。死んだ小鳥のその先の、行為、未来、そこに宿った美しさの。
それをすべて内包して。そして――最後に炎の魔人にすべてを、本当に身も心も全てを手折られて、その瞬間に際して、その時に芽生えたものはなんだったのだろう。
それから、けして入り混じることのない、革命の世界に触れようとして、手を伸ばした先に横たわる硝子越しに、指を重ね合わせる、行為のことを。

もとよりネクターがなければこの世界から出ていくことなどできなかった。ネクターは目の前で全て灰になった。絶望。どこにもいけない。腐敗。絶望。墜落。その確かな手触り、何ひとつ欠けることなく繰り返されてきた反復の執着。

けれど、今、彼女の目の前には、かつて――クロマ・セロシアに3人で遊びに行ったときと変わらない日常がある。着飾った二人。水際。無邪気さ。何も失うものなどなかった、あの確かな毎日。
星屑の小川、と呼ばれていた。地上に散ったたくさんの星、どこからかきっと、あの夜空、と呼ばれている、その輝ける流れ星の夜のような。（君もきっと見たことが、あるよ）遠い、流れて行く、留まることを知らない、水の流れを見ている。今、瞬間に切り取られる光景ではなく。その先の、続いていく、その確かな水の意思を。花弁は水面に揺れて、遠くへ去っていく。遠くまで行ってしまう、そして二度とは戻ってこられない。彼女の抗い、留めておきたいと願い続けた時間とは、違って。永遠などないのに、それでも、一瞬を永遠に引き延ばす、ふとした瞬間の記憶に焼きつくその一瞬の。固定化された、その美こそが、彼女の、あるいはタカージュドールの本質だと。そう思っていた。


（そしてこれからもずっと、忘れられない）


流れゆく花は、どこへいくのだろう。そのことを花は何も知らない。彼女自身も知らなかった。今から69日前、過去の咲く庭から見上げた、鳥の飛ぶ姿のことを思い出す。白いシャツ、締められたタイ、赤い口紅、ノールの割く庭、その柔らかな土に確かに穿たれたヒールの後。ネクターを求めた旅だった。彼女の信じる美しさを、維持するための。それだけだった。花が足りなければ、命を求め、その繰り返しは、きっといつか、ひとつの神話と呼ばれる行為へとつながって散っていった。そして、その帰着として今、再び三人で、住み慣れた家に戻ろうとしている。彼女にとっての日常そのもの。飽きもせずに繰り返された、反復の果てにある行為にすべて収束していく。彼らを家族、と呼ぶものもあったのかもしれない。家族。それもまた、一つの、彼女にとっての鳥籠。羽ばたきたかった。花も、望んだ風景のあるかもしれない。けれど、何度も絶望し、滅んで、息を吹き返す。恋の果てに愛の途絶えた鳥籠があるのかもしれなくとも。
それでも、彼女はまた息を吹き返す。何度でも。その度に、新たな鳥籠を得て、自由を求めて、再生していく。日の照りながら雨の降る、あのはじまりの白の日の様に。

未来を紡ぐことを性として与えられ、そしてそれを世界は規制し、未来を志向することなど知らなかった。
存在として完璧な女でありながら、硝子と氷のように儚げに、そして、いつでも切り取られた瞬間の美に、額づき。

彼女は今、不完全な女としてある。完璧な女としての美を得ていても。鳥籠の世界に赦されるものなど、なにひとつとしてないけれど。
それでも。花弁の流れゆく、その先に今視界が躍る。硝子を血塗れになっても叩き続けることを。美しいわたしを失うとしてでも、食べられてしまうということも。物質ではなく、冀う意志、その行為の全てが、今彼女の広い世界に宿る。



飛ぶ鳥が美しいのはなぜだろうか。その問いに今の彼女はまだ答えを持たない。けれど、鳥はまた恋をしているのだ。どこかに羽ばたきたいのだと、時には羽を休めることがあったとしても、遠く、遠く嵐の中を飛んでいく、未来、まだ知らぬ籠の外への希求が、恋があるのだと――


今はじめて彼女は、その飛ぶ鳥の瞳の先を見ている。その真っ直ぐに、ただ光の指すように。
その横顔を美しいと呼ぶものがあるのなら、彼女はその時、真実メルンテーゼのエル・フィガロとして、美しき肩甲骨を持つ。翼の、名残として。