赤い花が咲き続ける。
何の花かは判る。今この世界で枯渇しているあの花だ。
‥だけれど、どうやらこれは契約には使えないらしい。
何故咲くのだろうか、なぜ使えないのだろうか。
わからない。

が――この侭でいるわけにもいかない。

"イース"は、そういう否定をすることが出来ないだろうから。
理由を探らなくてはならないな。

そう思いながらも、また千切った。

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懐かしんだ匂い。
幾ら、事ある度に洗おうとも。
其処で数年を過ごそうとも、或いは数年を空けようとも。
その匂いは薄れこそすれ決して失われることはなかった。
住処に染みついていた匂い。
幼いころから――或いは、生まれる前から親しみ尽くした匂い。

嗅ぎ間違うはずもないそれが漂ってきていたこと自体は、別に不思議なことではない。
此処は地下牢だ。
そういったものと無縁の場所でない方が寧ろ稀だろう。
‥更に今、此処は。
赤い花の不当搾取で悪名高い新王の影響が及ぶ場所にある。
不思議ではないのだ。
歩みを一歩一歩と進めるたびに、その匂いがより強く、濃くなっていくようでなければ。

無意識に時折、表情がこわばってしまう。
カカ殿が聊か不安そうに、ちらと此方の様子を伺う度にぼくは"イース"であらねばならないことを思い出しては表情を緩めて喉を転がす。
さも、こんな人工物は見たことがない。
不思議でたまらない、楽しくて仕方がない、といった様子を装う。
申し訳ない。
不用意に看破されてしまっては、ぼくだけでなくカカ殿も困るだろうというのに。
もっとしっかり役者になりきらなくては、と思うけれど。

それを越えて惑う程に、その匂いはどんどんと濃さを増していった。
初めは微かに漂うほどのものだった。
歩みを進めれば、行先から漂ってくるのがはっきりと嗅ぎ取れる程に。
更に進めば、もう嗅ぎ取る必要がないほどに。
そしてやがては、ヒトの鼻をくすぐるほどに。

「‥‥‥」

実際にはそんなことはないけれど、ぼくは全身が総毛立つような感覚に襲われた。
その匂いが近づいて来れば来るほど、それは確信を持って全くの同種だと判断せざるを得なかったからだ。

朽ちた、肉の匂い。
そしてそれが、屍としてではなく蠢いている匂い。

父上の顔が、一瞬だけチラついた。

――気が付いたらぼくは、横にいる今の同行者の事は頭から完全に追い遣ってしまっていて。
持てる脚力のすべてで、石の床を蹴っていた。

匂いに吸い込まれる様に駆けていく。
構造が頭に入らない。
何回角を曲がったろうか。
どのくらいの距離を走ったろうか。
先ほどと今と、階層に差異はあるだろうか。わからない。

鼓動が跳ねる。
何時か身を割いてあの慧眼に押し付けた胸の鼓動が激しさを帯びて戻ってくる。
益々しなやかに撓む身体が、前脚が、爪先でがっちりと床をつかみとる。
ヒトの放る矢に迫るような感覚を覚えながら、ぼくは駆けた。

‥頭を真っ白にして駆けていたから、それもあるのだろう。
すぐに、発生源にたどり着くことが出来た。

まず、父上でなくてほっとした。
その頃の父上と合い見える事になったら、今のぼくは、どうすればいいかわからなかったから。

代わりに、心の底から血が滾っていくのを感じた。

父の匂い。
それは、死して尚も傀儡にされる屍の匂いだ。

紫色の髪と、青色の瞳が紺色の長衣の下で揺れている。
微かに湛えられる微笑みに、ぼくは初めて。
初めて、食べるの必要に迫られるだとか、自衛の為だとか、そういう"理由"を抜きにして。
ぼくは初めて、思った。

‥ぼくはやっぱり、駄目なんだろう。
父上は許していた。その父の心も、それを傍で見ていて、過ごした母の心も継いだぼく。
けれど、ダメだ。

ぼくは、ニンゲンがやっぱり憎い。
好きな気持ちに嘘はない。だけれど、憎い。
節理に土足で踏み込んでくるニンゲンが憎い。
他のいきものとの共存を考えず侵すばかりのニンゲンが憎い。
父上のすべてを狂わせて、その責も負わず、感じずに在り続けたニンゲンが憎い。

殺したい。

ニンゲンは、脆い。
咬み裂いたらすぐに事切れてしまう。
強く胸や頭を打ったら、これも事切れてしまう。
だからこそ、身に詰まる危険はより多く察知して、想像してしまうように出来ている。

――まずはあの薄笑いを消してくれる。

身体全体が震えて声を絞るように、ぼくは唸り声をあげた。

しっぽをふりふり歩きながら、時折横にそれては扉や床のあたりに鼻先を寄せている――。

近づいてきたオウのその台詞に対する、第一声は疑問の声だった。
つい先日教えてもらったはずの単語を、まるで聞き覚えのない言葉を聞いたように。

何かを言いたそうに。けれど言いづらそうに。
もごもごと言葉を濁し、スカートの裾を指で弄る。
俯いて、……意を決したか、顔をあげれば、ぎゅ、とスカートを握り締め。

多くを説明せずとも、それで全てわかるだろうと頭を垂れた。
…人語を、…それも自分の話す言葉を理解できる生物、に驚いたりする様子はなく、…対話自体は、まるでいつもと同じなのに。
相手との記憶、は全くない様子で。

イースの返答に、グリゴリは疲れたようにため息をついた。
出会ったばかりの頃よりは会話と呼べるものになっているだろうか。
もしこの獣が成長する獣だというのなら、とっとと成長して欲しいもんだ、などと思う。

マトモに相手をする事がバカバカしくなり、頬杖をついて適当に答えを返す。

ため息をもう一つ。

エンブリオはイースが付き合ってくれた事にさらに機嫌を良くしたらしく、嬉しそうに笑っている。

ブルーがちょっとしたフォロー？を入れつつ、彼はそう質問した。

(「これとか〜！」とバジルやらパセリやら…
メジャーなハーブをエプロンの内ポケットから取り出す―）

訝しげに様子を窺い。

鼻が近づいてきたところで、笑みを漏らしながらそんなことを。

　四肢を投げ出し、腹を丸出しにしたイースに笑う衛智

　封真は名を連呼されながら、ぐるぐると回られるという珍妙な
　まず会った事がない状況を憮然と見つめる。

　それから、何がなんだかよくわからなくなった風で見上げてくる竜に
　自分の頭を掻いてみせた。

　引っかいてできた地面のつめ跡をそっと足で消すと歩きだす、封真。

　イースの手を引くと銀に続く衛智が問うと

　背中ごしに、イースを見つめ、答えると
　封真は、正面を見据え誰の仕業だろうなァとボヤいた。

周囲をゆるやかに見渡す。
それから一つ、首を捻った。

現れたレグルスの姿を、暫くじいっと見つめる。
それからぱたぱたとしっぽを振っては、にこっと表情を明るくした。