この世界――メルンテーゼを初めとしたあらゆる分割世界――において、意思、言語の疎通にはほぼ障害がない。
分割世界のうちに生きる者々の殆どは、いわゆる「共通言語」を習得している。母語として、あるいは第二言語として、意識的にしろ無意識にしろ、自身の指先を動かすために殆ど思考や労力を感じないように、容易に。おそらくは。
カミユもまたメルンテーゼの極々閉鎖的で内向的な土地、アルーム村の育ちで、アルーム及びその周辺の地域の独自の言語――方言という表現に留めるには形態に差異がありすぎるので――を母語としているが、メルンテーゼの共通語は幼少時から不自由なく扱うことができた。大抵の場合はそのように、言語については不自由しない。しかし、その「大抵の場合」に当てはまらない者ももちろん居る。

「鈴蘭」のストゥーラの保持者、ジュリという名のその少女は、メルンテーゼにおいての標準語を、一切解することができなかった。
ジュリは誰も知らない独自の言語で語った。言葉の通じず、素性の知れない少女。彼女がこの世界、メルンテーゼとの間持つ唯一のつながりは、彼女が何故か所持していた――本人に聞いても入手経路は知れない――「鈴蘭」のストゥーラ、それだけだった。
ジュリは明らかに異質であったが、しかし彼女の持ち前の性格だろう、朗らかで人好きのする雰囲気は、それらの異質さを補って余る魅力があった。環境に慣れようと努力している様子は微笑ましかったし、物怖じせず様々なものごとに興味を示した。近日ではマァムブの面々からの教えもあって、近頃では片言ながらメルンテーゼ語での会話もできるようになっていた。

そのジュリが、カミユに取りすがって泣いている。今。
カミユの知らない言葉で何かをまくしたて、いやいやをする子どものように、なりふり構わず。この世界の言語をわずかとはいえ覚え、片言に語っていたはずのジュリが、一切カミユの理解できる言葉を発する事なく、しかし何かを訴えながら泣いている。


「ジュリ……！どうしたのジュリ、落ちついて」

「＊＊＊＊　＊＊＊＊＊＊＊＊　＊＊＊！」


廊下で鉢合わせ、いつものように声を掛けた。何ら変わったところのない、日常の一場面。ジュリ、部屋にいたの？珍しいね、夕飯の仕度を手伝わなかったんだ。カミユをぼんやりと見つめるジュリ。どうしたの。具合でも悪いの？ぼんやりしてるけど。返事はない。……ジュリ？顔を覗き込む。泣いている。カミユがはっと息を呑むのとほぼ同時に、堰を切って叫びが上がった。とほぼ同時に胸に飛び込んでくるジュリの体温、重さ、形、カミユの慌てふためく間も持たせずに、なおも叫ばれる見知らぬ言語。

嗚咽混じりにか細く震える、その聞き慣れない響きの羅列。繰り返されるそれらを、（ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、）しかしカミユは理解できない。ただただ耳に流れてくるその響き、抑揚、配置、流れ。不安定な、それでいて確かに意味を孕んだ音。歌のようにも聞こえる、音……。

ふと。はたとカミユは目をしばたかせる。
音が聞こえてくる。確かな意味を孕んでいるが、しかしその意味は不明瞭なまま。それでも確実に、自分へ向けて語られる。自分の知らない響き、抑揚、配置、流れ。音楽のようだった。その音楽に孕まれているのは見知らぬなにか、意思を、おそらく伝えずにはいられない、切望、祈り、堰を切るような。おそらく――おそらく。そういった感情に押し出された、何かの言語。

こんな事が以前にもなかっただろうか？
理解できない言語の響き、妙なる調べが、それでも確かに自身に向けられるようなことが――――――























天使とその言語について：
天使は本来我々の次元よりひとつ、ないしはふたつ上の次元に存在するものであり、
正しくその言語を認識することは我々の能力では不可能である。
しかし天使が我々の次元で言葉を発する時、我々はその意味を解せなくとも、美しく響く音としてそれらを捉えることができる。
即ち天使達の言語は我々にとって至上の音楽であり、我々の楽譜は天使の言語を追うものである。



（１４日目、上月樹里の日記に寄せて。続きは樹里宛のメッセージに）

腕に抱かれながら、くるり、と中の胎児だけがカミユの方を向く。

カミユの話を、うん、うん、と聞く。

グリゴリの部屋の近くまで来ると、ひょい、とカミユの腕の中から抜け出す。

そう言って、飛び出して行ったが、途中で振り返る。

聖地を襲った病の因に想いが馳せられる間に、
煙草の細い煙が天井に向けて細く昇る。

語られる広き世の有り様に緩く瞼を下ろし、
首を曲げてゆっくりと息を吐き出した。

ややあって、下を見ていた顔を上げる。骨ばった指を持つ手が、
額と巻き毛の境へ向けて伸ばされた。フン、と鼻が鳴らされる。

ぐい、と上向けるように頭を押して、修道士は煙くさい息を吐いた。

バカバカしい。と、はき捨てた修道士の手は、乱雑に巻き毛を掻き混ぜる。

ジロリと三白眼が横合いに流された。

修道士は話をそう括り上げて、煙草を咥えなおす。

欲しかったもの、への解釈に軽い半眼を送って、
竦めた肩を軽く揺する。

育ちがよくないガキだったもんでね。と、そう昔の自分を皮肉って、
短くなった煙草の先を金属製の灰皿に押しつけて潰す。

思いついただけの案を浮かせて、肩を竦める。

皮肉をひとつ挟んで、鼻を鳴らす。

約束とも言わず曖昧に、ただ　疑う音でもなく、
来るかわからぬ時間を指す言葉を繰り返す。
そういえば、と修道院についてを問われて、ああ。と声を落とし、

そう言って、赤味の無い薄い唇は微かな苦味を乗せて歪められた。

クリストファーが漏らすものとは別種の、軽い笑みをコロコロと漏らし。

　

　

　

小さく、隣の人に聞えるかどうか、といったそんな声。
震える手をぎゅ、と握り締めれば獲物を構え。
不安げな表情を無理やり内へと押し込めれば、顔を上げた。

刃を構えるのをやめれば、はああ、と深く息を吐いた。
自分が無事なことに、仲間にも致命傷がないことに心底安堵をする。

倒れた相手に近寄れば、傷の度合いを知るために声をかけようとして――
問いかけは、途中で止めた。

ふるり。首を横に振る。
そのまま、結局何も言わずにその場を去った。