…E-No.1196 コトカ・ラヤヤルヴィさんの日記とリンクしております、ミハウ側…

　司祭ラズロを撃退して、再度森へ向かう道中。
　周囲の警戒をしながら、ふと見たコトカさんは、いつもどおりに見えて。
　その横顔に思い返すのは、地下牢での出来事。

　*　*　*　*　*

　――あれから、どう声を掛けよう、なんて、何度も考えては、没にして。

　結局、何も思い浮かばないまま、気まずく思いながら進んでいた時、コトカさんに声を掛けられた。
　謝られて。
　何とか、それに言葉を返して、

　そして、何故か――呼び名の変更を求められた。
　コトカって呼んで、と。

「え、あの……な、なぜ、ですか？」
　いきなり、呼び捨てにして、なんて、どうしたのだろう。そう思っても仕方ないと思う。今まで、そういった要望めいたことも（あの一件くらいで）、言われたことがなかったから、なおさら。
　この反応は、思ってもみなかったのだろうか。一瞬、コトカさんががく、っと体勢を崩す。けれど、
「さん付けされると、余所余所しい気がするわ」
　直ぐ毅然とした態度に戻って、そう言い切られてしまった。
「そ、そうですか…？」
　言外に譲歩は認めない、とでも言いそうな言葉に、どうしようかと思って。
「でも、その、皆さんにも、同じようにさん付けでお呼びしていますし…それに、他の方を呼び捨て、というのは、…したことが、ないので」
　たとえ本人に良いといわれても、いきなり呼び捨てというのは失礼にあたる、かもしれない、と思うのはおかしいのだろうか。真っ直ぐな目に、真っ向から言うのは憚られて、少し目をそらして呟けば、
「イェジのことは呼び捨てじゃない」
　すかさず、痛いところに指摘が入る。こちらを見遣る眼差しが、少しきつくなった気がした。
　確かに、イェジに関しては呼び捨てだし、タメ口を利いているけれど。
「う、い、イェジは、あの、その…け、契約したとき、から、ああでしたから…さん付け、するのもと思って…」
　どもりつついい訳じみた言葉を並べて、どうにか勘弁してもらえないか、と思いながら言葉を足す。
「ですから、彼はいいんです、その…コトカさんは、女性ですし」
「別に、男性が女性を呼び捨てにするのも、そう変なことじゃないと思うけど」
　すっぱり。
「うう…」
　すごく、困った。
　これから、何を言っても、きっとことごとく言い返される。ありありと予想できる結果に小さく唸って、片手で顔を覆う。
「……あの、どうしても、呼び捨てしないと、ダメ、なんでしょうか…？」
　出た言葉は、ぽつり、と弱弱しく。もっと毅然とした対応をすべきなのは分かってはいるけど、この状況でそれが出来たら、多分苦労していない。
「そうしてくれなかったら、私、怒るって言ったわ」
　こちらに向ける視線は、一ミリたりとも揺らがない。その意志を覆すなんてことは、出来そうに無かった。
　小さくため息をついて、黙り込む。
　女性を呼び捨てにするのは、同性か、異性でもよほど親しい人間のすることだと、思っていて。少なくとも、これまで会った人達に関しては、さん付けして何か言われたことは一度もなかった。
　……元々、女性が苦手だという意識もあって、名前を呼んだ人数も少ないし、当てはまらないのかもしれないけれど。それは、私のような人間ではないことくらいは分かる。
　彼女がどうして、呼び捨てにそこまでこだわるのかは、分からない。何かあって、そうしているのかもしれない。
　けれど、――彼女が、歩み寄ってきてくれたのを、無下にしてもいいのだろうか。……それは、してはならないと、思う。格好は悪い、かも知れないけれど、そんなのは今さらで。

　――、一回、だけ。

　一回だけ呼んでみれば、いいのだろうか。もしかしたら、私の認識違いで案外、普通に呼べるものなのかもしれない。
　そう思って、顔に当てていた手を下ろし、コトカさんを見据えた。
「……呼ばれて、気分を害するようでしたら、すぐに言ってください。あと、慣れるまでは、間違ってさん付けで呼ぶかもしれませんけど、そこは許してください」
　言葉は一気に口から滑り出した。覚悟、というのも大げさだけれど、思い切らないと、こういうのは実行出来そうにない。
「呼ばれて嫌って思うくらいなら、最初からそんなこと言わないわ」
　続いた言葉には、頷きが返ってきて。
「……、」
　間。
「……えーと、じゃあ、呼んでみて？」
「……ん、コホン」
　無駄に咳払いしてみる。決めたものの、いざ言うとなると、やっぱり緊張する。
「……あの、ね、別にそんなに畏まらなくても良いと思うんだけど……。」
　それが伝わったのか、コトカさんまで身構えていて、なんか、その、おかしいよな、とも思ったけど。
　でも、決めたからには、言わないと。音にしてたった、三つ。それだけ。意識しなければ、なんてことのない言葉、のはず。
　深呼吸する。そして、
「……コトカ、」
　さん、と付けたくなるのを、無理やり抑え、たのはいいものの。
　熱い。顔が、熱い。いや、本当に熱い。熱でも出てるんじゃないだろうか。というかやっぱり認識違いとかではなくて慣れない事なんてするもんじゃなかった。恥ずかしいすさまじく恥ずかしい。ちゃんと断ればよかったもしかしたら分かってくれたんじゃないだろうか。でももう言ってしまったし言葉は戻らない。　それくらい知ってる。でも、けれど。
「……」
　コトカさんも、視線を逸らした。そして、被っているフードを更に深く被る。
　顔に思わず手をやりながら、その姿に、やっぱり嫌だったんじゃないだろうか、と不安はよぎって。
「……あ、あの…？」
　さすがに、もう一度、名前は呼べなくて。そっと、問いかける声も小さなものになってしまうのは、仕方なく。
「……別に、嫌って思ってるわけじゃないわ。違うから。これからもそんな感じで呼んで頂戴」
　念を押すような、凛とした声音。逸らされたまま、顔は見えないままだったけれど。嫌では無かったのなら、良かった、のだろうか。
「……、は、はい、分かりました」
　頷いて。
　
　間が空く。妙な空気。

「……え、ええと、その…行き、ますか？」
　耐えられずに、先への道を指して提案すれば、
「そうね、そうしましょ」
　間髪いれずに、返事が返ってくる。
　そうして、コトカさんの方が少し早く、指した道を歩きだした。いつもよりいくらか早足な気がして、追いかけようとして。
「！…あ、」
　揺れたフードからちらりと見えた、僅かに赤い横顔。思わず、立ちどまって。

　こちらに構うことなく、歩いていく背中が、いつかの日と被るけれど。

「…と、あ、足元、気をつけてくださいね」
　今度は、すんなりと、踏み出せた。
　その背を追いかけて歩きながら、努めていつものように気遣いを口にして。

　*　*　*　*　*

　がさ、と葉の掠れる音に、意識を戻す。音の出所に視線をやるも、そこから何かが現れることはなかった。
　同時に、森林にだいぶ近づいていたことに気付く。少し前にも訪れた、一見静かで、けれど恐ろしい魔物が住む森。
　この場所に現れるというエンブリオを探して、今回もトーコさんとウィルさんに同行していただいている。前を軽やかに歩くトーコさんと、私の少し後ろ、殿を悠然と歩いているだろうウィルさん。
　何かと助けてもらっている彼らにも、いつか、何か返すことができるだろうか。
　
　手にしたフレイルを握り直す。ここから先は、一瞬たりとも気は抜けない。
　――まずは、前に。きっと、それは、間違ってないと思うから。

ウィルの言葉には、へらりといつものように笑って。
鞄を探り出したトーコに、不思議そうに首をかしげ。

やがて差し出された紙は、全く見たことがないもので。
けれど、続いた言葉を聞けば頷いて、微笑むと受け取り。

　事実、少し表情は翳っていたのだけれど、直ぐいつも通りに、そんなことを言ってみせた。
　それから言葉を継ぎかけたところで、トーコから差し出されたものを見る。
　一瞬、きょとんした表情を浮かべたものの、それを受け取った。

信じてもらえるかどうかも分からないような話だろうけれども。
彼の言に嬉しげにした後、イェジの言葉には笑みを深めたりして。

あまり胸を張れたものでもないだろうが。

呼ばれ慣れていないのもそうだろうが、目上だろう相手にさん付けされるとは。
自然に差し出された手には、ぱっ、と此方も、手を取って返す。

なんて。
何やら誇らしげなイェジには、へええ、ってなもんで。
そう言えば、おじいちゃん、おばあちゃんも物知りだもんな、なんて思ったりしたけれど、言わなかった。

と、笑ったまではよかったが、それは、ミハウとの別れなのでは、と。
思い当たって、ほんの少し俯いた。

目を丸くして驚いた後、改めてミハウを見直す。

目をキラキラさせながら子狐のほうを向く。

そう言うと、ヴァルの周りで一瞬火の粉が舞い、小さなトカゲのようなエンブリオが姿を現す。

そう言って、ヴァルの横で火の粉を纏って浮いているトカゲを指す。

息をついて辺りを見回し、脅威がないことを確かめてから武器を下ろす。

　挨拶と言わんばかりに一鳴き。
　それから、ふわり、体躯に見合わぬ軽やかさで空を舞う。