冷たい手。
金属質な冷徹さではなく、恵みの水の柔らかさ。
右手に右手を重ね、指を指で握り、影と影を混ぜ。
モクの後ろからクリスがぴったりと体を合わせ、おだやかに腕を取る。
指のさきに軽く力をこめると、モクのなかから生まれた小さな震えがクリスにも伝わる。
なめらかに指を上へと傾け、頂点に達したところで下げ、同じ動作を反復した。

クリスの発音を、モクは微妙なクセや声色まで綺麗に真似する。







さかのぼること数時間前。

護りの森での休憩中、クリスは指を小鳥にかじられてしまった。
流れ出る血を止めようとクリスが癒しの魔法を唱えようとするよりも前に、
水しぶきが怪我した指だけにかかる。

クリスにかわって彼女の傷を治したのは、自然と共生する仲間。

こくこくと頷くモク。手元には幼児向けの語学本が握られていた。

――手紙を書けるようになりたいと考え、
ノームから教えてもらおうとしたが上手くいかなかったので、
クリスに文字の読み書きを習いたい……そうクリスは解釈した。
モクの言葉はいつも片言で、意味を読み取れないこともよくあったが、
今回はそれなりの確信を持って受け答えすることができた。

そうだよね、とクリスは内心苦笑した。
アルヴィンはあいかわらず腹のそこで何を考えているのかが読めず、
気軽な物事を頼む相手としては不向きだろう。
チハヤはいつでも快活に話してくれるが、
誰かに何かを教えることが彼女に向いているとも思えない。

森を駆け巡る風に応じてモクの頭のツタがゆらめく。
文字列を書いた紙を見つめる真摯な目とが可愛くて、モクの頭をやさしくなでてあげる。
ひんやりと心地よく、芳醇な香りが発散されるのが森のなかでもはっきりとわかる。

驚くことに、クリスが考えていたよりもずっとモクの学習速度は早かった。
アルファベットや数字は一度説明しただけですべてを難なく把握したし、
それどころか単語や文法規則までをもこの短時間でらくらくと飲みこんでいく。
これまで片言の言葉しか話せなかったのは、
モクに誰もまともに向き合ってこなかったからなのだろう。






メルンテーゼに送りこまれ、右も左もわからなかったクリスを拾ったアルヴィン。
4人のなかでもとりわけ異質な存在がモクだった。
あきらかに人間とは異なる肌色、頭から伸びるツタ。
自分――「人間」とは決定的に違う存在とともに行動することを
当初のクリスは受け入れがたく感じていた。
それに、初対面のモクの瞳は、進入者を捉えた監視カメラのように
注意深くクリスを追っていた。その視線にクリスはいたたまれなくなったのだ。

数日パーティーとして動いただけで、
クリスの抱いていたモクへの悪感情はあっさりと氷解した。
子供のように純真で、子犬のように素直で、それでいて騎士のように気高い正義感を持つ。
それがクリスから見たモクラの在り方だった。
当初のモクからクリスへの警戒心にも似た感情も、
クリスがモクに打ち解けていくにつれて収まっていったようだ。

モクから大地の揺れのように小刻みな振動が発せられる。

おそらく、先日の地下牢進攻のことを言っているのだろう。
ひとりで地下牢の再調査に行ったモクは、
思わぬ強敵の群に囲まれ、敗走を余儀なくされたのだ。

クリスから与えられた例文を読もうとせず、
かわりにその2つを壊れた録音機のように繰り返すモク。

頭に置いていた手をお腹に回し、モクを優しく抱きしめる。

恐怖の額縁に飾られている思い出を笑顔で眺めるクリス。

はじめて会った時にクリスが抱いた恐怖感。
すべてを見通すかのように見える両目。
涙で潤んだモクの両目が、今はただ愛らしかった。
クリスは優しくモクを包み込み、モクはそのなかで体を丸くした。

一揆のことはさっぱり分からないが、
自分達の活動が、この世界を確実に良い方向へと動かしている。
この想いこそが今のクリスの原動力でもあった。

クリスの青ざめた顔を心配そうに見上げるモク。

ごちゃごちゃした沈殿物が自分の中を満たしていく。

モクの応対は暗証番号を入れ間違えられた機械のように冷静だった。

違和感と疑問と恐怖の整合点がはっきりするにつれて、
クリスの思考と意識が揺らぐ。

モクがすらすらと紙に一文を書き上げるのを、
クリスは凍りついたまま凝視してしまう。



アルヴィンの口笛が響く。進攻再開の合図だ。

モクはその場を立ち去ってしまう。





"YOU ARE SYSTE"





クリスは、呆然としたままモクの書いた文の最後の一文字を自分で補完しようとしたが、
指の、腕の、身体全体の震えが止まらず、紙に大きな穴を開けた。

ふと、声をかけられた。
そこにいたのは見知らぬ少女だ。
誰だろう？　と尋ねる前に、彼女の方から言葉を続けた。

そのアムルイが、自分に何の用だろう？
一瞥しただけで分かるほどには、彼女の装備は整っている。
依頼しに来た客というわけでもなさそうだ。
怪訝に思っていると、彼女は笑顔で続ける。

それは君にとって、僅かであっても、救いになる言葉だった。
君はこれまで、言われるまま、望まれるままに武具を作ってきた。
あるいは職人として考えれば、それが正しい姿勢なのかもしれない。

だが、君の作った武具を手に、蛮行に手を染めた人がいる。
それを知った時、君の胸は確かに痛みを覚えていた。
所詮は道具。善も悪も、それを使う者次第でしかない。
しかし君は、自ら作ったそれを、悪用されたくないと思っていた。
叶うならば、正しいことに使ってもらいたいと、どこかで願っていた。

ならばこそ、このアムルイという少女のように。
綺麗だから見てみたいと望まれるのは、決して悪い気がしなかった。
強いか、弱いか。
武具として最も大切なそれを、望まれなかったから。

だから君も、見せてあげたいと思った。
彼女がそう望んだように、強いか弱いかなんて関係のない、綺麗なものを。
きっと彼女ならば、目を輝かせてくれるに違いない――――。

外套のフードを被った男が縫い包みを抱えた少女に気づくと、近づいてくる。フードを脱ぎ、海胆と毬藻を模した外套の留め具を示したところから、彼が賞金首のヴェイナスだろう。

モクラはただ、相手を見つめている……