突然ですが、お嬢様が料理の腕を振るうことになりました。

踵を持ち上げ足を忍ばせ、壁際に張り付く。
ゆっくり動き、一度窓枠の下をしゃがんで通過して、自分の影が室内に落ち込まない位置を確保。
それから音をたてないようにそっと窓をずらして、中が覗き込めるようにする。
窓の隙間からはバターの香りが流れ出してきて、もう料理は始まっているらしい。

そっと中の様子を伺う。
お嬢様がボールを小脇に、体を機嫌よさげに揺らしつつ、いざ調理にいそしんでいる様子。
フリルのエプロンをつけた後姿は、ここから颯爽と飛び出して不意打ち気味に抱き着きたいほど可憐ですお嬢様！
心の中で喝采をあげ、現実ではぐっと拳を握りしめ漏れ出る何かを堪える。
今はそれが本来の目的ではない。
心の中で呼びかけ、そっと差し出した手の先に契約妖精を半分だけ実体化させる。

何か主張が聞こえるが黙殺である。
呆れ顔ではあるが、議論しても仕方がない、と言うことなのかめんどくさそうにエリスが壁を透過し、テーブルの下へと移動する。
いつでも実体化は解けるように、曖昧な状態でそのまま待機。
とやっているうちに、ふとルクリお嬢様が振り返り、そして棚へと視線が移って、何か探している様子。
来たっ、と体を緊張させ、同時に頭を切り替える。


基本的に、お嬢様はお嬢様である。
そのほっそりとした綺麗な手からも察せられるように、労働階級ではない。
つまり村を出るまで料理などほとんど経験がない筈である。
それが、何がきっかけか厨房に立つ。
Ｑ：この時従者の脳裏によぎった不安の内容を述べよ（回答：10点）

百日紅の使用人たちと仲良くなったのか、こっそり料理は習っていた、と言うことです。
それがある程度成果を得たからそう言い出したことまでは推測できます。
でも、だからと言って心配しない、と言う理由にはなりません。
元よりお嬢様自身、実力はあっても経験が足りず、問題に直面したときに柔軟な対応ができない、と言う欠点があり、度々それがトラブルの種になっていたりもします。
――だから断じてこれは過保護ではなく、必要な行動です――！


一体何を、どの道具を、調味料を探しているのかについては、窓から流れ出る匂いを犬の嗅覚を持って分析し、推測し、それを妖精であるエリスが隠身を使いながら解決する。

きっと香りつけのエッセンスを探している！
行けエリス！　さりげなく見える場所に移動させるんだ！

そんなことを、考えていた。
けれど、思っていたよりもその手つきに危なげはなく。
集中して、どこか楽しげに動き回っている様子は、むしろこんな風に壁に張り付いて隠れていなくても、全くこちらには気付かなかっただろう。
暫し、その様子を眺めて――そっと窓際から離れると、ずるずると背中を擦りながら、立てた膝を腕で抱え込むように座る。


お嬢様の成長は喜ばしい。
けれど、いつの間にか成長していることが、同時に手がかからなくなることが、少し寂しい。
そんな感慨に耽っていたら、くぅっと腹の虫が鳴る辺り、深刻さが足りません。

もし作れるなら……今度の機会には、お嬢様にパンケーキをお願いすることにしましょう。
そう心に決めて、またこそこそと忍びだす。
お嬢様の料理が完成する前には、食卓に戻っておくために。