「ううううう………っ」

屋敷の一角にカレンの唸り声がこだまする。少女の声であったものの、それは彼女の耳が如実に物語っている獣の、冥府の番人あるいは猟犬の唸り声だった。ああ、彼女はやはり獣の性分を持ち合わせていたのだと――いつもルクリをお嬢様と慕い尽くしている従順さとは異なった面から気づかされることになる。
私は丁度彼女を背にして座っていたので顔こそ見えなかったが、きっとあの金色の瞳を歪ませているに違いない。ともすれば、歪みの元凶は涙であったかもしれなかった。
無粋にその様子を眺めることを良しとしなかった私は、聞き耳こそ立てていたが顔をそちらへ向けることはしなかった。
原因にも検討はついている。
メルンテーゼを賑わせているという人斬りの噂。噂は本当であったらしく、別行動をとっていたカレン、ルクリ、トーカ、それにマナカ……奇しくも女性ばかりが襲われることになってしまった。
人斬りの中には見返りを求めて襲う者だけでなく、純粋な狂気と残虐性を持った者も少なからず居るという。そんな連中に引き合わせることになったのは心が痛むところではある。
腹立たしいという彼女の言葉を聞き、私は酷く奇妙な感覚を覚えた。
ああ、彼女は悔しいのだと――悔しいという気持ちがあるのだと。

（私には無いものだ）

例えば、カレンたちの代わりに私が襲われていたとしよう。それでも私は、彼らの実力に叶うことがないと察した時点で何もかもを「諦め」てしまうに違いない。
彼らに遭ってしまった不運を嘆くことこそするだろうが、埋めることの適わない実力の差を悔しがることはないだろう。
彼らが私たちよりいくら優れていても、その首には見合った額の賞金がつき――日の下を歩くことは憚られるだろうし、十分な取引をすることを断られることもあるという話も聞いている。
社会の立場から見るならば、彼らは悪だ。どれだけ真っ当な人間だったとしても首についた価値がそれを物語っている。
面白いことにその首を刈り取られた者は農地を耕す労働に強制的に従事させられるらしい。
誰がそのような者を、悪と恐れられる者を――従えることが出来るというのだろうか。

（Paradis……王と呼ばれるものか）

この世界の王政がひどいものであるという話は聞いている。
それに立ち向かう為の革命に便乗する形で活動をしている我々。ああ、その中でも私は特に――王政のひどさについて興味を持っているとは言えなかった。有体に言えば、どうでもよい話だ。
それは私が、ネクターと呼ばれる赤い花を必要としていなかったからだ。――ネクター、ひいてはエンブリオを。
この世界に来てすぐにいくつかのネクターを譲り受けたが、それは自室の花瓶に挿してあるだけだった。その中の一輪こそ、探索に出る際は持ち歩くようにという方針に従って常に持っていたものの。
この世界に望むとするならば、それは私とツグミ二人が生きていけるだけの無関心と秩序。
――元居た世界には決して無かったものだ。
何かが特別変わっていると、周りの視線は嫌でも集まってくる。その視線が集まれば集まるほど、視線の持ち主は歪んだ秩序を形成するのが常だった。
私と同じように座っているツグミの横顔を見る。白い肌に影を落とすのは、細く柔らかい髪と睫毛だ。
時折疑問に思うことがある。歪んだ秩序の中を生きるには、奇しくもこの世界の人斬りのように、日の下を歩くことはおろか息を殺すように夜を待ち、暗闇を切り裂くように闇の世界を支配していく必要があった。生きる場所を求めるために。
私にはそれを成し遂げるだけの力があった。では、ツグミは――？

ツグミを拾うまで、彼に何があったのか。
私はそれを知る術が無かった。
本人の口はおろか、私とツグミを引き合わせた者ですら何があったのか話すことがなかったからだ。生きることを目的に支配していた闇の世界の領分だけでは、何があったのかを知るだけの力は持ち合わせていなかった。
自らの身を守ることはおろか、生活すらままならない状態で出会ったことから、唯一検討をつけていることはあった。
誰かの庇護があったこと、それだけは確実だった。
ツグミの左肩にある、あの――……
「…………………………………………」
憂いを帯びている瞳がこちらを見ていた。ツグミが目的を持って何かを見ることは少ない。
「……ツグミ。どうした」
「………………………………うん…………」
一言呟くだけでそれっきり黙ってしまったツグミが何を見ていたのか、私には知る術がなかった。

（ああ……）

知ることは、私にとっては酷く難しいことだ。
教えてくれ、と乞うことが――私にはどうしても出来なかった。
頼むこと、乞うこと、それら全ては人に弱みを見せる道筋だ。弱みを見せれば私の優位性は崩れ落ちる。
砂上の楼閣に等しい私の歪んだ精神はそれを恐れていた。
息を潜め、闇に紛れているうちに気付かなければならない。それを成し遂げなければ、生きることが適わない――……

「今日も水辺を行く予定だが、その次は新しい場所だ。きっと、お前が気に入るものが見つかるだろう」
「…………………………………………」

知らずのうちに私の手はショコラに伸びていたらしく、ほろ苦い甘みを享受していた。ショコラを口にする機会は多かったが、甘いものが好きなのではなかった。ただ、ショコラを食べていると落ち着くような心地がした。
ルクリやサクロに宥められて、次第に落ち着いてきたカレンの為に私は食べていたショコラの包みを一つとっておくことにした。
気が立っている時には甘いものだ。

System Message : M.E.E.駆動...出力...30%...40%...50%...M.E.E.戦闘出力確保......