
異形の姿を前にしても、その女、花勝見真菰は逃げる素振りを見せなかった。
それが奇妙に映ったのか、怪物は赤い目を僅かに細めた。
真菰は、自分の異能が身を守るのに全く役立たないことをよくわかっていた。
自分が次の数瞬で稼げる距離を、この怪物が軽々と超えてくるだろうことも。その爪が掠りでもすれば、自分の命などあっけなく絶たれるだろうことも。
怪物の体躯を見た瞬間に、わかってしまった。
だから、その場から動かなかった。
言葉を交わして時間を稼ぎ、逃げる隙を探す。
それが今、自分と自分の世界のために。自分がとれる最善の手段だと判断したからだ。
「……藻噛くん」
震えを押し殺して、努めて冷静に声をかける。
怪物の耳がぴくりと動く。生物らしい反応があることに、僅かに。ほんの僅かに安堵する。
「さっき、君の部屋で話したこと。覚えているかい?
そう、もしも侵略の噂が本当で、自分が侵略者だったとしたら、って話さ」
今にして思えばあの時、この話題を選んだのは、予感があったのかもしれない。
「見たところ君は侵略者で間違いないようだけど……ねえ、藻噛くん。
君はあの世界を手に入れて、どうしたいんだ。
そもそも、君は一体何なんだ?」
平静を装って問いかける。こちらを見る、この怪物の目には少なくとも知性が感じられる。
花勝見真菰は背を向けて全速力で逃げ出すことと、会話から情報を引き出しつつ隙を探ることを天秤にかけて、後者を選び取った。
「…………」
そんな真菰の思惑を知ってか知らずか、怪物は嘲笑うように口の端を引き上げた。長い腕を地面につくと、素早く鼻先で真菰の体を突き倒す。
ヒメシャガの花がいくつか千切れて舞い、虚空に消える。
「うぐ、」
咄嗟に避けることもできず尻餅をついたところに、怪物の顔がのしかかるように近付いた。無造作に体の左横に置かれた巨大な手が、倒れた真菰の腕を巻き込む。
次の瞬間、身を屈めた怪物の重量が真菰の左腕を圧し潰した。
「―――ッッ!!!!」
「……ああ、すみません。腕、踏んでましたね」
場違いなほど淡々とそう言って、怪物はぺろりと掌を舐めた。
暗赤色の舌で指にへばりついた肉と血を舐め取って、その顔が真菰を見下ろす。
「それで、何でしたっけ。
『何故侵略をするのか』と『俺が何なのか』……でしたか。
どうせ時間稼ぎのつもりだったんでしょうけど、聞きたいですか? 答え。
それとも、早く済ませた方がいいですかね」
巨大な頭部が斜めに傾ぐ。それはまるで人間が首を傾げるような仕草の、あの後輩が時折見せる癖の、醜悪なパロディだった。
藻噛叢馬は花勝見真菰の異能を知っている。
彼女の異能が脅威でないことを、この怪物は知っている。
単純な暴力で叩き潰せる相手を逃がすつもりも、生かしておくつもりもない。
潰したのが足でなかったのは、或いは無意識の慢心だったのかもしれないが。どちらにしろ状況はそう変わらない。
「ひ、」
飄々とした佇まい、超然として捉えどころのない、隙のない冷静沈着な女。
そう見えるように意識的に装っていても、花勝見真菰の精神は普通の範疇に収まる人間のそれだ。
不自由らしい不自由もなく生きてきた、ごく普通に恵まれた環境で育った学生だ。
だから、目の前にある死に、今この瞬間身を苛む痛みに、耐えられなかった。
それを齎す相手が知己であることを想定していたつもりでも。それなりに好ましく思っていた人間の顔と声をした怪物を、ただの人間は受け入れられなかった。
平静を装い続けることが、できなかった。
噴き出した汗で体中がじっとりと濡れている。視界が涙で霞む。噛み締めた唇からは血の味がした。
震える脚で立ち上がろうと藻掻いても、這って逃げようと身を捩っても、すぐ上に怪物の顔があるせいでそれも叶わない。潰された左腕の痛みが、その気力すらも奪っていく。
――死ぬ。殺される。
心臓が掴まれるような恐ろしい予感に、真菰は顔が引き攣るのを自覚した。
「いいですね、その顔」
平坦な声が降ってくる。その声は紛れもなく後輩のもので、その台詞も聞いた覚えがある。
いっそ似ているだけの別物だったら、まだマシだったのかもしれない。
けれど、怪物が話せば話すほど、似ていると思ってしまう。
この醜悪な怪物は紛れもなくあの後輩なのだと、わかってしまう。
「やっぱり答えることにします。
俺は人食いの怪物なので、答えたら先輩を食べますけど、最後まで聞いていてくださいね」
そう宣言して、怪物は鼻先を真菰の喉元に押しつけた。
赤く艶やかな眼球に、涙でぐしゃぐしゃになった真菰の顔が映っている。
「侵略の理由なんて簡単です。俺はイバラシティの海が欲しい。
俺は海で生まれたから、海に帰りたいんです。アンジニティの海じゃない、美しい海に」
――"時々、俺の帰る場所はあの海なんじゃないかって思うんです"。
それは、いつか聞いた後輩の言葉だ。
淡々とした温度のない声が、怪物が話す度に吐き散らされる、噎せ返るような海の臭気に重なる。
「俺が何なのかについては、説明するのは難しいんですけど」
怪物は少し考えるような素振りを見せた。
その言葉の切り方が、改めて言葉を紡ぐ前の息遣いが、どうしようもなく似ている。
「……やめてくれ」
だから。
「先輩には俺の研究、少し話したことあるんで知ってますよね。
――海の怪異。怪物。伝説。
俺のいた世界では、もう誰も信じないし、畏れない。俺達は忘れられたんです。
笑えますよね。俺達を生み出したのは人間自身だっていうのに」
「もう……やめて、」
それ以上、その声で話さないでくれ。そう、思ってしまう。
「消えたくなくて、あちこちに逃げましたよ。
まだ海を畏れる人間のいる場所を探して、探して、辿り着いた先でそこにいたものと混ざって、それでも消えたくなくて。ずっと、ずっと走って、泳いできたんです。
……でも、結局は忘れられた。
それが俺の、元の世界での最期です」
懇願めいた細い声を無視して、ぺた、と馬のような耳を伏せてから。
怪物は自嘲するように唇を歪めた。
「あの世界で忘れられた、海の怪異の寄せ集め。そんなところですかね。
――だから」
真菰を見下ろす、濡れたような赤い瞳がぎらつく。
大きく横に裂けた口から涎がとめどなく溢れて、落ちて、滴った。
「恐れろ。怖れろ。畏れろ。
溺れるような顔を見せろ。
その細い腕でもっと、もっと藻掻いて見せろ」
怪物は真菰の顔を覗き込む。
恐怖に歪んだその表情に、歯を剥き出して獰猛に笑う。
これは人とは相容れない化け物だと。
人を畏れさせてこその人でなしだと。
まるでそれが存在意義だとでも言うように。
「ああ、その顔だ。その顔がもっと見たい。
先輩の感じている恐怖こそが、俺の存在を補強してくれるんです」
真菰の体に怪物の手がかかる。女の首を絞めるように、細い体を掴む。
万力のような力で締め上げられて、体中のあちこちで骨が軋む。
「ひぎッ……ぃ、やだ、やめ、いたぃ、……っあ、ああ、ぁ……ぅ……」
その痛みは途切れかけていた真菰の意識を無理やり引き戻し、文字通り絞り出すような悲鳴を上げさせた。
「ふ……っ、ふ、ぅ、っく、うう、……」
そうだ、なにか言わなくては。少しでも、この時間を引き延ばさなければ。
――終わらせてほしい。終わらせてほしい。こんなのはもうたくさんだ。
誰かの助けは期待していない。
そんなものを求めるなら、最初から背を向けて逃げ出していた。
――痛い、痛い、いたい、くるしい、こわい、しにたくない、
侵略の噂が本当で、侵略者達があの愛しい世界を侵そうとしているならば。
目の前の怪物が、本能に従ってあの世界を侵略しようと言うのならば。
――だってわたしは、やっとゆめがかなって、これからやりたいことだってたくさんあって、
――でも、でも、でも!
このままこうして、この怪物を少しでもここに引き留めておくことが、きっと私にできる最善だ。
潰れそうな意識の中で、花勝見真菰は恐怖から目を逸らすように、それだけを考えようとしていた。
食い込んだナイフのような爪は容易く肉を裂く。痛みが決意を、覚悟を、鈍らせる。
それでも、そんなことはお構いなしに、最期の時はやってくる。
「ねえ、もっとよく見せてください」
体のどこかで、致命的な何かが折れる音がした。
――ああ、いまのことばも、どこかできいた。
ぼんやりとそう思ったのを最後に、真菰の意識はぷっつりと途絶えた。
***
「……あちら側の記憶が流れてくるたび、腹が減って仕方がなかった」
花勝見真菰の体をあらかた喰い終わった後、手についた血を舐めながら怪物は呟いた。
花畑のように咲いていたヒメシャガは、もう花弁一枚も残っていない。
ただ伝承通りに打ち捨てられた臓物の一部だけが、乾きかけた表面を晒している。
「それに、そう、あちら側の俺の真似も、なかなかうまくいった」
地面に顔を近づけて、残った血や肉の欠片を探しながら、今しがた喰った女の顔を思い返す。
怪物は藻噛叢馬の知己と話す上で、声色を、話し方を、呼び方を、口癖を、意識的に真似ていた。そのことが相手の心理にどう影響するのか、量るために。
対面した状態で試したのは初めてだったが、あの女の様子を見るに、それなりに効果的だったようだ。問題はあの口調がどうにも面倒臭いというところだが、まあ仕方ない。
「しかし、つい興奮して話しすぎたな。まあ、喰ったから同じか」
自分というものの成り立ちについて、あそこまで話すつもりはなかった。
それはこの成れ果ての怪異が舐めた、敗北と屈辱の歴史だ。
アハ・イシュケ
馬のかたちをした海の魔物。
人慣れした美しい馬の姿で現れるが、本性は獰猛な捕食者である。
――美しい海馬の棲む海辺は消えた。
ナックラヴィー
スコットランドはオークニー諸島に伝わる、赤い肌の半人半馬。
異様に長い両腕で人や家畜を絞め殺す怪異。
真水を忌み嫌う。
――荒れ狂う赤き人馬は島を追われた。
サルガッソー海
『藻海』。『粘りつく海』。『船の墓場』。
北大西洋に位置する、多くの船が沈んだ『魔の海域』。
ただし、事実としてそういった記録は残っていない。
――船乗りが恐れた魔の海域にあったのは、ただ漂うだけの噂のみ。
畏れられなくなった怪異の寄せ集めは、この地で再び息を吹き返した。
そこに恐怖する人間がいる限り、その歩みが止まることはない。
***
――狭間での時間が終わる。
それは一瞬にも満たない時間。
人間ひとり、喰い殺した怪物の記憶は表には残らない。
それは藻噛叢馬が知ることのない出来事だ。
・・・・・・・・・・
だから今この瞬間、無意識に指先を舐めたことの意味を、男が理解することはない。
「……そういえば先輩、さっき何か言いかけてたな」
先程出て行った彼女の言葉をふと、思い出す。
――"君のところの教授"。
第二学群海洋生物学専攻教授、斑目水緒について。
「……まあ、いいか」
自分には関係ないことだ。そう決めつけて、思考の端から追い出して、それっきり。
――それは確かに、一人と一匹にとっての分岐点だった。